レースレポート   03年1月〜
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003.年明けからランニング復活

 元旦より走り復活、仕事も復活。昨年末クリスマスあけ(=欧米ではBOXING DAY)からインフルエンザで発熱、丸6日間を空白のように過ごしてしまった。初日は、走っても咳き込まない程度の走りを。昼から、やっと年賀状を作成。いつも大慌てで年内投函に間に合わせていたのに、今年ばかりはとてもそんなどころではなく、不義理をしてしまった。

 2日は妹夫妻が年始に来て、昼まで居たので、それを送り出してから長居公園往復のジョグ。その日の午前中に新年はしろう会を主催していた快走クラブのメンバーたちに挨拶。

 3日、冷たい雨が降り始めたが、女子マラソンコースの試走会に参加し、長居公園までの片道ジョグを入れて50キロのジョグになった。後半13キロがフリー走になり、とばす人はどんどん飛ばしていたが、わたしは付いて行けず、付いて行かず・・・・びしょぬれになった身体を同乗させてもらった車で暖めて、帰宅後は仕事へ向かう。

 4日も寒風の中、酒練メンバー(ブラインドランナーの練習会)と大阪環状線を横断して、JR桜ノ宮からなみはや大橋渡ってきた。市内の目抜きどおりを伴走しながら走っていったが、人通りも車どおりも少なく、快適なラン。途中から降り出したみぞれが激しくなり、帰りは早々にJR大正から電車に乗って正解。ゴールには薬師の湯という温泉が待っていた。

 5日は平城宮跡新春マラソン。長い距離のPRは気持ち的に出来ないので、5キロと10キロのレース2本立てで、ともにビルドアップ的に走る。タイムは、5キロ20分18秒。10キロ41分23秒。5キロで総合一位だったのは中学生、19分台前半。脚の動きがまったく良くないので、タイムにはまったくこだわらず、走る感覚をつかむだけで精一杯。


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2003.1.11〜13 三連休は三連走

 初日は大阪市民マラソン5キロ、19分15秒。ペース感覚を確認したつもり、キロ3分50秒くらいで、と思っていたので、ほぼその通りの走り。我が家から会場の長居競技場まで片道約10キロ、行き帰りのゆっくりジョグでつないだ。

 日曜は駅伝、大阪実業団対抗。スピード系を3日連続、となると、これはちょっと負担過多なレースだが、昨年亡くなったームの助っ人として参加である。

 アンカーで3.3キロ11分58秒。これは駅伝ならではのタイム、たすきを受けて必死で走った。いつも惜しいところで入賞を逃すチームとのことだったが、今年は5位に入賞。みんなそれぞれ昨年のタイムを更新しての成績だったので、十分満足のできるものだと思う。

 亡くなった先輩が居て下さったら、どんなに喜んでくださったことか・・・・打ち上げでは大いに盛り上がり、帰宅したら11時をまわっていた・・・翌日のハーフのレースのことは余り意識していなかった。明朝のスタート時刻も確認せずにカラオケで騒いでいた。

 睡眠不足ではあるが、枚方ハーフは予定通り出走。暖かい目の気温が予想されていたので、気分的にも楽だった。しかし実際には9時半スタートの11時には走り終わっていたので、結構風が冷たかった。

 キロ4分くらいのイメージだったが、女性先頭ランナーが見えている最初の3キロを11分半、彼女の姿が遠ざかりつつある5キロを19分23秒で入ってしまい、「あかん、これはなんぼなんでも速過ぎる。」と、その後キロ4分に戻したものの、最初の貯金が効いて、1時間23分15秒だった。

 折り返してからは良いペースメークをしている若い男の子を風除けにし、「前に追いつきますか?」(=彼)、「じわじわと追いつきましょう。」(=わたし)などと会話しながらも、やはり全体的に4分をちょっと切るペースで、予定より1分余り速いタイムだった。

 この1分が速すぎること、肝に銘じている。だから納得のいくレースとなった。練習が出来ていない分、少し追いこんでおきたい、でも速過ぎるレースも疲れが残ってしまう。2週間後のフルマラソンでこれをやってしまうと、絶対に最後まで持たない。長居競技場を最後に出るつもりくらいで、景色が止まっているようなイメージで走り始める・・・

 寒波は10日ごとにやってきている。1月3〜5日が寒かった。そして明日、14日からまた寒い予報。ということは、女子マラソンのときにはまた寒波????寒がりのわたしは、そんなことにすら、非常に過敏になってしまう。

 大阪女子まであと2週間の調整についてはまったく未定である。スケジュールを決めてしまうと、それを消化できないことについてまた、ストレスを感じてしまうので、身体と相談しながら臨機応変に、行き当たりばったりだが調整していくつもりである。

 今回は体を軽く、軽く仕上げることができればいいのだが・・・・なぜなら、寒い気候の中でフルマラソンを走るとなると、脚が重たくなる一方であることが予想されるからである。今まででも、フルマラソンのレース途中から脚が軽くなるなんて、無かったのだ。

 目標は出走、完走!
2003.1.26 大阪国際女子マラソン        2時間56分21秒(56位)
          ⇔思いのほか走れた大阪。レポートは写真をクリック!

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2003.2.2 枚岡公園クロスカントリー(3キロ)     15分31秒

 地元東大阪市内で開催されるこのレース、大阪府と奈良県にまたがる
生駒山麓の枚岡公園がその舞台なので、かなりのアップダウンとの評判。
「ものすごいコースやで〜。」「走りにくいよ〜。」と、過去に参加したことの
あるひとは口を揃えて言う。市の教育委員会が主催だし、さてどんなもの
かと一度参加してみることに。しかしまあ、同じ市内であるから、LSDを兼
ねて家から走っていくことにした。

 1時間もあれば到着するだろう、と市内地図を見ていったが、会場に近づ
くにつれ残り約3キロはだらだらのぼり、LSDのペースがさらに遅くなり、ス
タート時刻15分前にやっと到着。大慌てでナンバーカードをつけてスタート
ラインに並ぶと、わたし以外はみな女子高生。わたしは、彼女らのお母さん
くらいの年齢かもしれないのである。遠慮して、後列からスタートしようと思っ
ていたら、いつもお世話になっている東大阪陸協の先生が「小川さん、ほら
ほら、前に並んでよ。この中にはあんたの相手になるような高校生はおらん
よ。」と大きな声をかけてくださるものだから、ランパン&ランシャツ姿の女子
高生はいっせいにわたしに注目〜「なに?このオバさん??」

 LSDのついでに枚岡のコース流すつもりが、ちょっとは気合を入れなくて
はならなくなったのである。ところがコースは想像をはるかに上回る激しい
つづら折れの登りから始まり、しかもオフロード。木の根っこやら石やら、ま
た滑るところなどもあり、ランナー並走も難しい険しい登山道である。所々幅
のあるところで、やっと前のランナーを交わせる程度。登りだけを頑張って先
陣きり、下りはとても走れる斜度と路面ではないため、女子高生に道を譲る
ことに。ゴールでは3着だったが、先着した女子高生から、「登り速いです
ね〜。」と握手を求められ、とても新鮮で嬉しかった。

 しかし一般女子はわたしだけのエントリーだったことから、成績は「優勝」
である。ラッキ〜(^^)V。優勝商品は、主催の教育委員会に預かってもらっ
て、帰りももちろんジョグ。途中恩智川沿いで、ブラインドランナーのRMちゃ
んと走る練習もした。3月2日京都での視覚障害者の10キロロードレース
の伴走、決めているのだ。二つ返事でオッケーしたけれども、視覚障害者
ばかりのレース。眼の見えている人が大半の普通のレースに視覚障害者
が混ざっても、みんな接触を避けてくれるが、視覚障害者ばっかりだと、大
丈夫だろうか・・・・?10キロだったら入りも速いだろうし。不安を払拭する
ためには、練習第一である。それにしても、なんども雪が舞って、寒い一日
だった。

後日談:<気になる優勝商品は???>
 翌日、仕事のついでに家から一駅先の教育委員会に商品をもらいに行った
けれども、それはとても大きなレターラックだった。携帯電話の充電器置き場
つき(・・?)…もらっておいてこんなの言うのもなんだけど、携帯電話のない我
が家ではとても役に立ちそうになく、残念。 
2003.2.9 駅伝のはしご!

<午前>大阪府市町村対抗駅伝競走(第2区3.2キロ)  11分53秒
<午後>大阪市長杯駅伝競走(第5区3.3キロ)   12分9秒

 日曜日に駅伝のはしごが控えているというのに、前週の木曜夜から発熱
でダウン!仕事も休んで寝込んでしまった。当日はなんとしてでも出かける
つもりだが、大幅にみんなの足を引っ張りそう・・・メンバー、調子良さそうな
だけに申し訳なさ過ぎ・・・ほんのわずかの気の緩みに、風邪は入り込む・・
・反省。

 さてまず午前中は、地元東大阪市の代表メンバーとして、市町村対抗の
駅伝。場所は大阪の北摂の万博陸上競技場。女子ばかり4人のチーム。
ところが第2走者のわたし、痛恨のコースミスをしてしまい、道がわからな
くなりぱったりと止まってしまった。ふと後ろをふりかえると、いままでわたし
が抜き去ってきた走者たちが反対方向へ駈けていく。どこをどう間違えた
のか、曲がり方を間違えたようだ。信じられないミス!こんなことがあると
駅伝なのに、意識が切れてしまい、そのあとはまったくだめだった。気持ち
を切り替えて盛りかえさなくちゃいけないのに、それができない、まだまだ
甘いランナーであった。

初めてのコースでの駅伝、区間も3キロ余りと短いものであったら、ウォー
ミングアップを兼ねて下見くらいしておかなければいけないことを肝に銘じ
た。

 午後の駅伝は、長居競技場。モノレールと地下鉄を乗り継いで、1時間
半くらいかかりそうな移動時間だったが、同じく駅伝のはしごを予定してい
た同じ市チームの男性メンバーの車に同乗させてもらい、ラクラク移動。
あらかじめ、午後からの駅伝では最終走者に廻してもらっていたが、スター
ト時刻にも充分間に合い、本当にありがたかった。
 
が、脚はとっても重いままで、午前中のミスを引きずって気分も重い。第5
走者としてたすきを受け、走り出したわたしに、「速いですね〜。」と声がか
かることもあったが、なんの事は無い、第5区までに各チームの走者がバ
ラけ過ぎて、速いチームはもうとっくに先のほうに行っている。後ろのほう
のチームの、普段は余り走っていないような人が借り出されて走っている
ようななかをわたしがトコトコ走っていって追い抜かすものだから、ごぼう
抜きに見えただけのことである。

 例年、この駅伝の後はお楽しみ新年会が予定されているのだが、両親
は風邪で寝こんでいるし、わたしだって微熱がある・・・これは宴会どころ
ではないと、さしものわたしも悟りを開いて、家に直帰したのであった。
2003.2.11 奈良県内レースのはしご!

<午前>奈良市民マラソン(5キロ)         19分17秒
<午後>斑鳩の里法隆寺マラソン(10キロ)   41分21秒

 雨予報の雲行きを心配しながら、朝一番のレースは、奈良市内鴻池陸
上競技場発着の奈良市民マラソン。期せずして、奈良マスターズの女王
さま、京谷こまえ姉さんとの直接対決となった。この人と一緒のレースだけ
は避けたかった。この人のレースに見せるものすごい気迫には、到底太刀
打ちできないことがわかっているので、それを実感する同じレースでヨーイ
ドン!から、逃げてしまいたかったのである。

 最初にあっという間に離され、勝負するつもりもなかったけれども、こまえ
姉さんのスピード感を味わってみたくて、下りで一気に追いついた。ちょっと
だけ前に出てみたくて、胸の差(注;参照)だけ前に出た。でも、その後のの
ぼりではまったく付いて行けず、コテンパンにやられた。しかし、こまえ姉さん
と並んだとき、とても気持ち良い空間だった。こまえ姉さんの優勝タイムは1
8分47秒。

 この日もまた、奈良県内を移動して、レースのはしごである。ジョグとバス
&JRを乗り継いで、間に合うようにタイムスケジュールを組んでいたけれど
も、前述・奈良の女王さまがベンツ(かな?)を手配くださり、ラクラク車で移
動。面倒見の良さと羽振りの良さはさすが女王さま〜大感謝である。
 そうして午後のレース会場に到着してみるとまた、新たなレースの喧騒の
中に・・・・。雨も降り出しているのだが、走る脚は止められない・・・・。

<注>「胸の差」とは・・・?
 これは俗に言う、「ハナの差」「胸の差」といわれる表記であって、決して
こまえ姉さんとわたしの、「胸のふくらみの差」ではないので、読者の方は
想像をたくましくしないようにお願いいたします。
2003.2.16 泉州国際市民マラソン       2時間59分54秒
(総合7位)
 心配していた天気予報が見事に当たり、前夜から降り出した雨はかなり
のもの。未明のような土砂降りが続いていたら、それだけで出走取りやめ
の理由になりうる、と自分でも情けないほどの弱気で、雨音を気にしながら
明け方から布団の中でぐずぐずしていた。

 朝7時半に目覚まし鳴らして、そのときも土砂降りだったので、「後30分
寝よう、雨を防ぐところのない浜寺公園(=スタート地点)に早く行っても仕
方ないし。」と、目覚ましをセットしなおし、布団の中にもぐりこんでいた。

 10時過ぎに受付に到着して、ナンバーカードやチップをつけたり、着替え
たりしているだけでもう、荷物預けの時間(10時30分)。それでも、体温を
奪う冷たい雨から身を守るため、ナンバーカードをビニールでくるんでユニ
フォームの前後につけるという念の入れよう。そこまで準備していたのに、
かばんの中に帽子が無い!どうしよう、風邪を引いているのに・・・頭を雨で
うたれると、発熱してきそうだ。「帽子忘れた〜〜〜!!!」と更衣室で慌て
ふためいていると、ボランティアの人が、自らかぶっていたスタッフ用の帽
子を差し出してくださり、一難去る。(泉州銀行のお姉さん、とのこと、名前も
お尋ねして、後日お礼状を届けることに・・・・)

 さらに手袋の中には、黒飴キャンデーをしのばせる。実は前日からおなか
が超特急で、カーボローディングも何もあったものではなかった。マラソン
練習が出来ているといないにかかわらず、マラソン前日には、おなかが空
くひまが無いほど、食べまくるわたしであるが、風邪からおなかを通してしま
い、おそらくはガソリンタンク、ほぼカラの状態である。当日の朝も、おなか
はあいかわらず超特急。マラソン会場に向かう南海電車に乗っていても、
トイレに行きたくなり、途中下車したほどである。腹痛は無かったので、そう
いう状態がいわゆる「下痢」とは、気付かなかった。万が一のとき、インナー
を汚さない工夫も、出走準備の一つであった。

 さあ、このレースの目標は、「イーブンペースで走りきること。」前半に気
持ちよく飛ばしすぎて、後半潰れるなんて、もってのほか。自分のペース
感覚を大切に、走るのである。今回、「全国市民マラソン優勝者招待選手」
としてのナンバーカードをもらっていたので、ナンバーカードには、「紀の国
美山マラソン代表」などと書いてあるのが一大事。それなりの走りが期待
されているのだろうが、なにぶん体調が整っていない。万が一、途中でト
イレにでも駆け込むことになれば、おそらくその時点でレース継続は無理。
最前列に近いところからスタートだったので、雑踏に巻き込まれて転倒しな
いように、かなり気を使って走り始めた。

 3週間前のフルマラソンとほぼ同じ、5キロを21分3秒で通過。しかし、余
裕度はまったく異なっていた。3000人同時スタートなので、集団もかなりの
数。その中で自分のペースを探すこと、雨を気にしたり、さらに冷たい空気
を吸い込むと咳き込んだりしていたので、完走すら見えてこない。いずれに
せよ、少しペースを落とすつもりで、自分のイメージに合う集団を見つけるこ
とにした。

 やはりこのレースでも、7キロ過ぎたあたりから、いい集団に付くことが
できた。FRUNの赤いユニフォームと、信貴烏の白&黒のユニフォーム。
あちこちのレースで見かける強豪チームなので、安心して付いていくこと
に。男女混合レースだが、わたしのいる集団は男性ばかり。コース上にも
女性ランナーは数少ない。それが沿道の人に新鮮に映るのか、声援は
必ず、「おねえちゃん、頑張れ〜。」わたしほどのオバちゃんでも、「オバ
ちゃん、頑張れ〜。」とは言われないので、ありがたやマラソンレース(o^0^o)。


 何度となく「おねえちゃん、頑張れ〜。」と声をかけてもらっていたら、
こんどは「おねえちゃん、頑張れ〜、言われてるで、淀君。」とうしろから、
S鉄工所のユニフォームの秀吉殿(=テレビの秀吉役の俳優さんにそっく
りなので、わたしはその人のことをこう呼んでいる)とその集団に追いつか
れ、かなりの数になった。が、集団走もしばらくの間、中間点(わたしの通
過1時間29分36秒)手前からペースの上がったこの集団から、ぼろりと
こぼれ落ちていくのであった。

 ときおり冷たい空気を吸い込んで何度も咳き込み、少し頭もボ〜っとし
てきた。走りながら余りにも何度も咳き込むので、「Oさん(=わたしのこと)
、風邪ですか?」と並走するランナーにも心配そうに声をかけてもらった。
エネルギー切れを危惧して早い目に手袋の中の黒飴をほおばるも、走り
ながらでは大きすぎて噛み砕くのに苦しい。また咳き込んでしまう。ペース
はそんなに落ちていないのだが、体調と後半の橋のアップダウン4回を心
配すると、まだまだ完走ができるかどうか、自分でも不安である。

 28キロをすぎて短い折返しの箇所、ほんのわずかだが路面は上ってい
る。が、わたしの脚はがぜん元気になってきた。ずっと並走していた白と
黒の信貴烏のユニフォームの人に「少しずつ前のランナーを拾っていきま
しょう。」と自分自身にハッパをかけるように自分から声をかけ、「絶対に
完走するんだ!」と強い意思を持って脚を動かし始めた。「自然に背中を
押される」とはまさにこのことかもしれない。体調の悪さからいつやめるこ
とになっても仕方ない、と、途中棄権も辞さない覚悟で走り始めたこのレー
スだっ
たが、30キロ手前でまだ難所が控えているにもかかわらず、「完走」を掴み
取るつもりになった。 

 脚は動いた。30キロを過ぎて、レース中盤で抜き去られた女性ランナー
が前に見えてきた。自分のペースもちゃんとチェックしている。急激なペース
アップをしているのではないのだが、前方のランナーが近づいてくるというこ
とは、前のランナーが疲れてきたということだろうか。しっかり前を見据えて
脚を動かしつづけた。

 33キロからは、大きな橋の上り下りが合計4回ある。のぼりにさしかかっ
て、廻りのランナーは気にならなくなった。自分のペースで上るだけである
のぼりを頑張りすぎると、下りでバランスが取れなくなってしまうことも危惧
した。35キロで時計を見ると、「もしかすると、3時間を切れるかもしれな
い?!?でもまだ橋が2つある。」あまりおおきなことは期待せずに脚を動
かしつづけた。38キロで再び時計を見たとき、「ここで頑張れば3時間切れ
るかもしれない。逆に、ゴールして3時間をちょっと超えていたりすると、もの
すごく後悔するに違いない。」と必死になって走った。

 ・・必死になって走れて良かった、2時間59分54秒。
 あとでこのタイムを、練習仲間のMKちゃん(彼女自身も堂々のサブスリー
ランナー)に伝え「せこく3時間切っちゃった。」と言うと、「しぶくサブスリー、
と言ってあげるわ。」とにこっと笑ってくれた。ありがとね、MKちゃん。

余談:後で知ることになったのだが、このレースに自己ベスト更新と別大
切符(2時間40分以内)をかけていた同じ淀川ランナーズの渡辺豊治さん
は、わたしが目覚まし時計をセットしなおして再び布団の中にもぐりこんだ
時刻(午前7時半ごろ)には、「東京国際マラソンのゴール間近をビデオで
繰り返し見て、気合を高めていた。」とのこと。「雨だったら走るのやだな〜。」
とすねているわたしに対して、「やっぱり、雨は降り続いていましたね。ま、
槍が降ってないからいいですが。」(HP掲示板書き込みより)と、レースに
対する意気込みからして違う・・・結果2時間32分39秒の大幅自己ベスト
で10位入賞。ニューヒーロー誕生に、「あの若草色のユニフォームの人、
誰?」と世間でもうわさになっていた。本当におめでとうございます。\(^0^)/

余談:思いがけないご褒美もいただいた。「King, of City Marathon 女子の
部」と書かれたブロンズのトロフィー。「全国市民マラソン優勝者招待選手」
のなかで、一番だったとのこと。かなり「たなボタ」っぽい・・・どころか「たな
ボタ」そのものであるが、トロフィーが余りにも立派だったのですっかり気を
良くしてしまった。
2003.3.2 第20回京都視覚障害者マラソン大会(10キロ・伴走)      52分35秒

 『失ったものを数えるな、残されたものを活かせ』〜これは、大会記念誌に
書かれていたパラリンピック創始者のグッドマン博士の言葉である。

 わたしが視覚障害者と接するとき、「目が見えなくてかわいそう。」という気
持ちではなく、「目が見えないのにこんなことが出来るなんてすごい。」と感動
することが多い。それは、この博士の言うところの、残されたものを活かして
堂々輝いているその姿に感動しているのだと、きょうあらためて思った。

 京都視覚障害者マラソン大会とは、目のみえる人が大半の普通のマラソン
大会と違って、視覚障害者ばかりの大会。視覚障害者が単独で参加申し込
みをしても、主催者側で伴走者をつけてくれ、スタッフも手厚く誘導してくれる。
伴走者は、地元洛南高校(男子マラソン日本最高記録保持者高岡寿成選手
の母校)の陸上競技部員、伏見工業高校(ラグビー全国制覇多数回)のラグビー
部員、立命館宇治高校の陸上競技部員、地元走友会のランナー、また年度に
よってはワコールや京セラの実業団ランナーが伴走してくれることもあるという。
申し込みをする視覚障害ランナーにとっても、ちょっぴり出会いの一期一会の
楽しみがあるようだ。もちろん、いつもの伴走者をパートナーに連れて行っても
良い。

 わたしは半年くらい前から一緒に走るようになったRMちゃんの伴走者として
この大会に参加だ。一年前に泉州マラソンで伴走デビューしたけれども、今回
は視覚障害者ばかりのレース。眼の見えている人が大半の普通のレースに視
覚障害者が混ざっても、みんな接触を避けてくれるが、視覚障害者ばっかりだ
と、大丈夫だろうか・・・・?10キロだったら入りも速いだろうし。不安を払拭す
るためにも、今年に入って必ず週一回はRMちゃんと走るようにした。休みの日
も走ったこともある。RMちゃんのパパの運転する車で、会場の西京極陸上競
技場入りだ。

 あんなにもたくさんの眼の見えない人が一堂に集まって、レースに参加して
いるのを見るのは初めてだったので、会場に居るだけで、感激でからだが震え
た。ほとんど暗闇の世界に居る人たちなのに、そのことで閉じこもったりせずに
身体を躍動させて、なんて身体じゅうでまわりの空気を感じながら走ることがで
きるんだ、と思うと、すごいなあ、の一言である。
 
 RMちゃんは未熟児網膜証で、生まれつき目が見えないという。身体が弱く
て、マラソンなんてとんでもないという幼少時代だったそうだ。ランニングを始
めても、温度調整がうまくできずに汗を掻きにくい、という体質のため、到底走
ることに向いているとは言えない。でも、RMちゃんは「走ることが好きになって
しまったんです。」と言う。そして、根が頑張り屋さんのため、走り始めたらとこ
とん走ってしまい、ばたっと倒れこむこともしばしばとのこと。

 そんなRMちゃん、きょうも頑張った。3月にしては気温が上昇して、ゆっくり
ウォーミングアップで走っているだけで汗が出てくる。伴走のわたしも額に汗が
流れるのを感じた。RMちゃんは汗をかけない体質。息遣いとともにだんだん
顔が赤くなってきた。「RMちゃん、行け行け、がんばれ。」とさらに声をかけて
いるけれども、「こんなに頑張らせてだいじょうぶだろうか?」と一抹の不安も
。でも、最後までしっかりした足取りで、ペースを落とすこともなくゴール。一生
懸命走り終わったRMちゃんに感動してとてもいとおしくなってぎゅ〜〜〜っと
抱きしめたくなった。

 RMちゃん、わたしに伴走を任せてくれてありがとう。一期一会の出会いも
あったかもしれないのに、わたしをパートナーに選んでくれて、大会に連れて
いってくれてありがとう。大きな感動をもらいました。
追記:この記事を読んでくれたRMちゃんからメールをいただきました。〜
(以下メールより抜粋)

私のこと、書いてくださるんですね。
こんなわたしのこと、書いてくださって
とても、嬉しいです。
あの日のことが、大分たつというのに
昨日のことのように思えてなりません。
この、HPをよんで、ひとりでも多くの方が、
視覚に障害を持っていても走れるのだと、
知ってもらえ、また、伴走をしていただける人が
増えていくといいなあ?と思っています。
えらそうなことかいてごめんなさい。
私のほうこそ感動をもらい、また
あのひ、伴走をしてくださって有難うございました。
2003.3.9 名古屋国際女子マラソン               2時間59分34秒
(66位)

 当日は、名古屋名物の風が吹きまくって、しかも大会史上に残る強風だった
という。誰もが「風が強かった。」という中で、わたしは余り風のことは気になら
ずに、レースに臨んでいた。

 走っているコース上に、3車線もの道幅を横切ってカラーコーンが吹っ飛んで
きて、ランナーにぶち当たりそうになったこともある。このときは身の危険にびっ
くりした。沿道で配られる小旗が、強風のためちぎれて紙くずになり、脚にべ
シャッとからまってくる。あれまあ、という感じ。4〜5人の集団で走っている前
半で、前後左右からの突風にあおられて端のランナーがよろけ、それに接触し
てしまうこともあった。自分だって単独走になったとき、突風で身体のバランス
を乱すことがしばしばだった。しっかり身体を立てて、前に進まなくては。走りに
集中していた。

 風は強かったが、日差しも強いのが幸いした。これで曇天だと、どれほど体温
を奪われただろう。と言うが、主催者側分析のランナーの体感温度は、3〜5℃
だったともいう。日差しに弱いわたしは、強風の中あえて帽子をかぶって出走し
た。

 走り始めればみんな条件は同じ。世界選手権がかかっている最上位選手に
とっては、順位と記録、双方が要求されているが、市民ランナーは市民ランナー
の走りをするだけである。私自身は、ジョグさえおぼつかない脚の状態での出
走だったので、風のことまで気を廻す余裕が無かったというのが本音である。

 15キロくらいまで、4〜5人の集団で走ることが出来た。わたしの予定してい
たペースで通過したのは5キロだけ。走路を北向きに取ったとたん、集団の
ペースは愕然と落ちた。しかしこれが体調の整わないわたしにとっても良い
ペースに違いない。完全に流れの中に身を任せていた。そのあと集団がばら
けて少なくなっていったものの、ペースをキープしているランナーと並走を続け
た。直前の2回のマラソンレースのように、後半どこかで背中を押されるときが
あるのだろうか?いままでで一番脚の重い状態でスタートしているが、走って
いるうち軽くなることがあるのだろうか?

 他者のペースに身をゆだねて走っていたが、自分の時計のチェックも怠らな
い。ペースの落ちかけていた26キロを過ぎて、「このままでは3時間を切るこ
とができない。」と意識が先行して、前に出ることにした。身体は「まだ早い、まだ
ペースアップする時期ではない、ここでペースアップしても、後は知らんぞ。」と
明らかにNGサインを出していたが、意識が先走り、わずかだがペースを上げ
ることになった。

 向かい風をもろに受け、単独走になった。30キロを待たずして、「途中棄権」
が頭をよぎった。「もうここまで来たんだから止めても良いんじゃないか。」「最
近のレースで一番余裕も無い状態でまだ30キロ手前なのだ。」「これ以上走っ
てしまうと、後の身体へのダメージが怖い。」「今ここで止めると、身体の故障は
最小限で済まされるはず。」

 揺れ動くわたしにちからをくれたのは、直前の水曜日に一緒に大阪城を走っ
たときにブラインドランナーのRMちゃんが言ってくれた「駄目と思ったらダメで
すよね。あかんと思ったら、あかんし、あきらめたら、ダメですよね。」〜この
言葉だった。RMちゃん自身へ言い聞かせるようなこの言葉が、わたしの耳に
残っていたのだ。

 本当にきつくなってきた31キロ過ぎから、このレースで故障悪化するのも
怖かったため止めることだけを考えていたが、RMちゃんの元気で可愛らしい
声が幾度となく耳に響いてきて、わたしを走らせてくれた。だって、1週間前の
10キロレースを伴走したとき、RMちゃん、本当に頑張っていたし、わたしが
ここでラスト10キロを走りきらなければ、恥ずかしくてまたRMちゃんにあわ
せる顔がない、と思って走った。

 「名古屋にも応援に行くよ。」「3時間切ったら、お寿司おごったる。」と約束し
てくれた友人は、レース5日前に不慮の事故で帰らぬ人となっていた。「わたし
は約束を守る!」さらに強い気持ちを持って走りつづけることが出来た。

 「3時間切ってもお寿司、おごってもらえない・・・お寿司、おごってよ〜〜〜、
ばかやろう〜〜!」と思ったのは、走り終わってからだった。わたしはちゃんと
約束を守ったし・・・・。あきらめずに走ることが出来て本当に良かった。

 名古屋を走りきって、身体ぼろぼろである。強風にやられて、身体のバランス
をとるのに余計なちからを使ったためか、右膝に炎症を起こしてしまい、翌日は
ちゃんと歩けなかった。その次の日のお昼は、家の横の幅30メートルほどの
横断歩道を走って渡ることできなかった。でも、一日仕事でばたばたしていると
身体もなじんできて、夕方、もういちど横断歩道を渡るとき、走ってみよう、と
思って走ると、とりあえず30メートルだけ走ることできた。

 きっとまた、走ること出来る。体をはずませて駈けていくこと出来る。身体が
その準備をするまでの間、しばらく休んでもだいじょうぶ。
追記:前後が逆になったが・・・名古屋までの真っ暗な気持ち・・・

 全力を尽くそうと思っても、練習途中で潰れてしまうことだってある。連戦の
疲れもあってひどい体調不良におちいり、咳き込んで息苦しくなる風邪が1ヶ月
以上も長引いている。名古屋、とても走るどころではない状態となり、今後のこ
と(=4月の全日本マスターズ駅伝の代表メンバー)もあるので、これ以上故障し
たり、体調を落とすこともできず、出走には大変迷ってしまった。体調不良は、
毎晩毎晩、寝ていても体がしびれてきて(寝相が悪いわけではなく、神経痛の
ため)、何度も目覚め、眠りが浅いのが原因らしい。しかしここまで来て名古屋、
あきらめきれない。

 名古屋の目標は2つあった。タイムと、完走。
 自己ベストを狙った昨秋の東京女子マラソンで、前半から集団の中での位置
どりを気にしたり、給水を気遣う余りチョロチョロ脚を使ってしまったのと、最初の
5キロ20分半よりも速く入りすぎたのを後悔しているので、名古屋でもう一度
冷静にレースを運びたかった。今シーズンのフルマラソンでは、最後潰れたと
自覚した走りをしていないのだが、名古屋はどうなるのか?東京でも、後半失
速したとはいえ、自分では「つぶれた〜〜。」という感じはなく、脚が動いていた
つもりだった。東京の失速は、低血糖ゆえと思っている(ゴール後毛布3枚に包
まれ担架で運ばれた)。低血糖でも、潰れたことにはなるのだろうけれども、脚
が潰れたわけではないと思っていた。大阪も泉州も練習のつもりで、名古屋で
、ハイペースで入りたかった。今年は大阪女子マラソンを、休養モードで走った
から、名古屋まで頑張りたかった。ある人からは、オーバートレーニングを指摘
され、「トレーニングするなんて気持ちは捨てた方がよい」と言われていた。

 それと、もう一つの目標は完走。
 いつも故障がちのわたし、東京〜大阪〜名古屋、と、1シーズンに「三都物語」
の3レースを走りきったことがなかったので、一度はそんなことをしてみたいな、
と思っていたのだ。さらに今シーズンは、東京と大阪までも、思ってもみなかった
けど自己のコースベストで走っている。過去一度だけ走った名古屋は、発熱で
潰れて3時間11分。少なくともこれを上回れば、3レースでコースベスト更新に
なるかな?!?

 しかしそんなことよりもなによりも、迷っていたわたしに出走を決めさせてくれ
たのは、レース4日前に届いた同級生の訃報だった。大阪&泉州と応援に駆
けつけてくれて、「3時間切ったら寿司おごったる!」「名古屋も、応援行くから。
味噌煮込うどん食べにいくから!」と言っていた友人の突然の訃報。・・・なんで
約束やぶるねん・・・

 昨年5月に亡くなった大学時代の先輩をしのぶ気持ちで、東京&大阪と、2回
の女子マラソンで喪章を付けて走ったわたし。今度の名古屋は、もう、黒いリボ
ンは要らない、と、気持ちの整理をしていたところなのに、2つもリボンを付ける
ことになるのか…。昨年亡くなった大学時代の先輩と、名古屋直前に亡くなった
同級生とは、同じ会社の陸上部。彼らの脚と、自分の脚。6本の脚をもって名古
屋を走ることにした。今のわたしに出来るだけの走りをするために。

 3日前に出走を決意したものの、その翌日にジョグに出かけたわたしは、途中
で走ることも歩くことも出来なくなって電車に乗って三駅分を引き返してきてい
る。真っ暗な気持ちで、前日名古屋に向かう電車に一人で乗っていた。こんな
脚で、42キロを完走できるわけがない・・・・誰だって、必ずしもベストな状態で
狙ったマラソンレースを迎えるわけではない、それにしても本当に走れるのだ
ろうか・・・・
2003.3.21 大江山女子駅伝(第1区・3.4キロ)  12分45秒(区間賞)&チーム優勝

 今日は大江山(福知山の近く)まで駅伝、さすが京都の山奥、花粉をつけた杉
が一杯で、もう、やられまくり・・・。走っているレース中から涙がぼろぼろ、走り
終えたそのとたんくしゃみ連発、帰りの車の中では鼻が詰まって苦しくておしゃ
べりも出来ない・・・。

 だけれども、お土産にふきのとうをもらってきて、さっそく白味噌とみりんなどで
和え物にして、酒の肴を作った。ワインにもあうし、焼酎の水割りにもあうし、美
味!ふきのとうがちょっと少なかったので、ぴんと思いついてお茶っぱを混ぜて
みたら、ふきのとうのほろ苦さをうまく融和してくれて、量も増えて、いい感じ。お
茶っぱはもちろん、出がらしのもの。出がらしにもカテキンが充分に含まれてい
るそうなので、我が家では野菜ジュースに混ぜてミキサーしたり、なんとか再利
用するようにしている。

 ふきのとう、美味しいな〜。いましか味わえない、春の野っぱらの旬の味。一
人でちびりちびりと飲むのである〜〜。
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