world race report

2005.1.6

Tiberias Marathon
the "lowest" Marathon in the world


    

  写真左:マラソン当日のわたし
  写真右:イスラエルチームのコーチ・アントニオ
           
(このレポートが東京の陽子さんによって英訳され、さらにイスラエルのアビさんによってヘブライ語に訳され、イスラエルのランニング雑誌に掲載されました。英訳はこちら。)

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 建国1948年という若い国、パレスチナとの抗争だけが取りざたされているイスラエルに、マラソンを走りに行くことになった。きっかけはフランス・ノルマンディーでのレースで知り合ったイスラエル・チームのコーチに誘われたこと。フランスでのレースは2004年の5月。その後7ヶ月の間、アントニオというそのイタリア国籍だがイスラエル・チームのコーチは熱心に手紙やメールでイスラエルのことを知らせてくれていた。

  どこにでも走りに行くわたしも、中東のイスラエル、と聞いてまだまだ戦争やテロが続いている国に足を踏み入れようとは思わなかった。イスラエルという国そのものに対して、危険意識だけが先行し、イラク情勢などと一緒くたになっていたのである。第一、外務省の海外安全ホームページを検索してみても「理由のいかんにかかわらず渡航の延期をお勧めします。」とのこと。そんな国にのんきにマラソンなんて走りに行くなんて、それこそ「捕まえられて、首をちょん切られて帰ってくることになるわよ!」(=我が母親の心配〜イラクへ自分探しの旅に出かけた日本の若者がテロリストに連れ去られ殺害された事件は記憶に新しい・・・)

 マラソンレースは年明け早々の1月6日。ちょうど日本の年末年始にあたるため、行くとなれば海外航空券の手配を早めにしておかなければならない。3ヶ月前にweb-siteで予約を成立させ、その後も安全情報に留意しつつ、渡航を迷っていた。出かけて行って果たして無事に生きて帰ってこれるのだろうか?航空券の代金決済を済ませてもまだ迷っていた。おまけにパレスチナのアラファト議長が死去し、情勢は悪化しているといえそうだ。

 そんな時、わたしの背中を大きく押してくれる1通のメールが届いた。差し出してくれたのは、東京在住の見知らぬ日本人女性。彼女は、イスラエルのランニングチームに所属しているイスラエル人ランナーの大親友で、「日本からこんな女性がイスラエルのチャンピオンシップを走りに来るといっている、その女性は東京国際女子マラソンも走っているはずだから、検索してみて。」といわれて、わたしの存在を知ることになったという。ハイテク関連の仕事上で知り合った彼らは、日本とイスラエルを往復する仲であるそうだ。

 イスラエルのことを良く知る彼女は、わたしにイスラエルという国がいかに美しい国で、イスラエル人はどんなにもてなしの心にあふれた人々であるかということを、その後の何通かのメールで楽しく知らせてくれた。危険情報についても、「情勢をわかっているイスラエル人と一緒に行動するのであれば、何の心配もいらない。」との彼女からの明言を得て、わたしは日本からはるかに離れた中東のイスラエルに大きく一歩を踏み出したのであった。

 日本からの直行便はないため、フランクフルト経由でトランジット(乗り継ぎ待ち時間)も含めて27時間、到着したテルアビブの空港は明るく広く、およそ中東のイメージとはかけ離れていた〜それもそのはず、まだ2〜3ヶ月前に新装なったところだそうだ。イスラエルは広く海外からの移民を受け入れている国だが、得てして空港には白人と見られる人種が多く、顔を覆ったアラブ系の人々はあまり見かけなかったし、武装した兵士なども皆無だったことから、イメージを一新した。

     
   写真両方とも:テルアビブの空港内

 空港には7ヶ月ぶりの出会い、アントニオが出迎えに来てくれていた。彼のチームの男性ランナーも一緒だった。テルアビブから北へ車で走ること約2時間半、レバノンとの国境に近い北部のビレッジにホームステイすることになった。数年前まではレバノンとの抗争激しく、ミサイル弾が飛んできて村の女の子が直撃されたり、国境からテロリストが入り込み銃弾戦になったり、と、そののどかな風景とはかけ離れた流血の惨事があったそうだ。「ガ、今デハスッカリ落チ着イタノデコノアタリハ大丈夫、大丈夫デナカッタラ、マラソンヲ走リニオイデ、ナンテ誘ワナイヨ。」と、そのコーチ。レバノンとの国境はオリーブや深い緑の樹木が続く美しい稜線を見せていた。

     
     写真左:レバノンとの国境付近から見たイスラエルの国土
     写真右:国境付近からレバノン方面を見る

 レースまでの間に多くのランナーに出会い、一緒に走り、彼らの家を訪問する機会を得た。もちろん市民ランナーである彼らは、それぞれの職業を持っている。日本との友好深く日本人家族の友人を持つアビ・アペル氏はハイテク技師。ほかにイスラエル独自の共同生活体「キブツ」で生活するランナーも多い。みな仕事のかたわら、走ることが好きで走ってる市民ランナーなのである。

 イスラエル唯一のフルマラソン・レースはAIMS公認で当国のチャンピオンシップ(選手権)になっていた。ハーフマラソンや短い距離のロードレース、クロスカントリーなどはそのつど大会があるそうだが、マラソンは年に一度きり、1月初旬に催されるこのティベリアマラソンである。ある程度の賞金が出るので、男子の部はエチオピアやケニアの選手が賞金稼ぎに来ている。女子の部はイスラエル人女性が2時間40分台前半のタイムで常勝しているそうだ。

 マラソンの舞台は海抜マイナス200Mのガラリア湖畔。滞在先から車で2時間ほどだ。朝9時のレースに備えてランナー仲間が車を乗り合わせて出かけること、早々に到着したと思っていたらまだ私たちよりも先着のランナーたちがいて早くも軽くウォーミングアップをしていること、多くのスタッフが忙しそうに横断幕を張ったりして準備していること、など、日本で見かけるマラソン大会の風景とまったく同じだ。

 マラソンだけのエントリーは500名ほど、そのほかに12キロのレースが併設されていて、受付はシェラトンホテルのラウンジだった。アントニオのランニングクラブのメンバーにくっついていって受付を済ませるのだが、一緒に行動していたアビ・アペルは当年とって50歳のベテランランナー。ベスト記録2時間28分を持つ彼はランナーの知り合いが多く、10歩あるけば友人に出会い、そのたびにぎやかにお互いの参戦をたたえあい、健闘を祈りあい、ランナーの交流が深まっていく。「ヒロコ、僕ノ友人ニ会ッテ。サア、ミンナ、日本カラ来タヒロコダヨ。」とわたしも紹介してもらっていた。「彼女ハトテモ走ルコトガ好キデ、too many marathon races、11月ニ東京女子マラソン、12月ニホノルルマラソン、ソシテ今日、イスラエルノチャンピオンシプヲ走ルンダヨ。」と解説してくれた。

 そのアビ・アペル氏に言わせると、「マラソンハ人生ノ泉、ワキアガッテクルモノハ何物ニモ代エガタイ、人トノツナガリモマタ、マラソンヲ通ジテノカケガエノナイ出会イ。」と。ランナーとしてのわたしは完全に同意でき、ランニングは世界共通であることを再認識するのであった。

    
   写真左:フランスのレースで出会ったイスラエルのラン仲間イアールと、中央にアビ
   写真右:イスラエルのオリンピックランナー、ニィリィ・アブラハムスキーさん

 アジア系の人種をまったく見かけない中で、日本人男性4名を発見。彼らも、どこから見ても日本人にしか見えないわたしに気づき、話しかけてきてくれた。シリアとの国境近くのゴラン高原に派遣されている日本の自衛隊の若者だった。1996年以降、ゴラン高原において日本の自衛隊45名が継続活動中であり、彼らの任期は6ヶ月でこの2月に任期を終えて帰国するとのこと、市民ランナーではないのだが、初マラソンをこのイスラエルの地で走ることにしたそうだ。ティベリアマラソンはゴールまでの制限時間もないというが、初フルが中東、なんて、めったにないことだ。自衛隊所属でイスラエルに派遣されること自体、平穏に慣れたわたしにはとてもたいそうなことに思えた。

     
    写真左:かの地で出会った日本人男性4名
    写真右:AIMS公認レースでスペシャルドリンクの受付もあり

 

 適・当〜〜にウォーミングアップを済ませ、保温のためのビニール袋をもらっていつもと同じように身体を覆い、スタートラインに移動した。これまたいつもと同じように、前から数えて早いところに陣取った(少し遠慮して、3列目!〜チャンピオンシップの割には申告タイム制のスタート位置もなく、自由にスタート地点に並んでいた。)前のほうから報道カメラマンが写真を撮っていたが、残念ながら体の大きい欧米人やすらりと長身の黒人にまぎれてしまい、どうやらカメラには収まらなかったようだ。先行の車椅子のレースを見送り、いよいよスタートだ。 

    
   写真両方とも:スタート直後の様子
   左の写真の中央左より、黒のTシャツに赤のスパッツがわたし 

 ドン、とスタートしてしまえば、あとは自分の感性で走るのみ。3日前のスピードチェックの2キロを7分27秒で走っていたが、最近の練習量の少なさから考えて脚が持たないと思われ、全長を3時間10〜15分を目標に走ることにしていた。キロ表示が1キロごとにあり、ほぼ平坦なコースなので、時計を目安にしやすい。最初の1キロが穏やかに下っているので4分1秒で入ってしまったが、その後はうまく目標の1キロ毎4分30秒前後のペースに戻すことが出来た。

 湖沿いで走路が平坦だと少し退屈かな、と思っていたが、ゆるやかにカーブしたりごく穏やかなスロープになったり、とコース自体は極めて走りやすかった。が、海抜−200メートル、まわりを山に取り囲まれているためか、吹き降ろす風に悩まされた。幸いにして太陽に恵まれたので、吹く風は冷たい風ではなく、追い風になったときには汗が流れ暑いと感じるくらいだったし、向かい風にしても体が冷えてしまうような風ではなかった。なるべく体の大きなランナーを風除けにして走ろうとしたが、後半はランナーがばらけてしまい、壁のように感じる風と重たくなってしまった脚、二重苦になってしまった。

 脚が重たくなってしまうこと、これもまあ、いつものことである。今回は異国の美しい風景に後押しされ、フィニッシュで待っていてくれているであろうアントニオが手繰り寄せてくれているような感覚で、最後までなんとか脚を動かし続けることができた。最後の1キロは街区を小さく一回りするので声援も多く、いつものごとくとても気持ちよくフィニッシュゾーンに走りこむ・・・。

    

 リザルトは3時間14分7秒。女子総合5位、35−44歳の部で2位だった。最近のわたしは記録にも順位にもこだわらない。レースを満喫することが第一目標だが、はるばるイスラエルの地まで来て、トロフィーをいただくとやはりうれしさ格別。「来年モゼヒ来テクダサイ。」〜日本の市民レースでもいつもこのように言葉をかけてもらうのだが、はるか離れたfar eastからも再訪のチャンスがやってくるだろうか?
 
 最後に、イスラエル、という国に関していかに自分が無知であったかということを知らしめられた旅であったという事を付加しておく。18歳以上の男子3年以上、女子2年以上の兵役を義務としているイスラエル軍隊は、狭い国土(=日本の四国程度)と限られた人口(約663万人=2003年現在〜ちなみに日本のランニング愛好家人口は600万人程度、といわれている)、そして軍事力を含めた資源の量的制限から、最小の損害で、可能な限り短期間に脅威を排除することが必要であるというイスラエル国家の特性から来るものである。そして、一度でも敗北すれば国家の生存が危うくなる事情から、最も軍事的合理性を追求した政策がとられている。ただし近年、中東和平の達成および人的、物的損害を避ける観点から過去に比べて軍事力の行使には抑制的になっていると見られる(=web-site=外務省→各国・地域情勢→中東→イスラエル、による)。

 実際に出会ったイスラエルの人々は、美しい風土の中で人生を謳歌している人々であり、とりわけ訪ねてくる他者に対して寛容でありもてなしの心にあふれ、「ワタシノ家ハアナタノ家ダト思ッテ、ユックリ過シテイッテクダサイ。」とみな歓迎してくれるのである。わたしのイスラエル滞在もホームステイという恵まれた環境であり、外食は一度もなし。訪問の最初に「外貨ヲ両替スル必要ハナイカラネ。」と言われ、三度の食事をホームステイ先でいただいているか、または訪れた友人宅でいただいているか、はたまたキブツと呼ばれる共同生活体のダイニングルームに紛れ込んで食べているか・・・。いずれにせよ、国交のないレバノンとの境である北部辺境地帯に滞在していたものの、ほんの数年前の情勢とはうってかわって、落ち着いた穏やかな環境であった。

    
   写真左:ランニング仲間
   写真右:中央にいまはカイロプラクティック技師のシェミ(ロス五輪マラソン代表選手)

 たしかにランニングチームのメンバーにも、兵役が明けたばかりの二十歳代前半の若者がいたのだが、彼らにとって兵役は「important=大事なこと」であり避けて通ることのない当然の事のようであった。また、今年の10月から兵役に向かう高校3年生(=18歳以上で兵役義務が発生する)のアントニオの長女によると、「国ヲ守ルノハトテモ大事ナコト、今マデノイスラエル軍隊ハディフェンスニ廻ルコトガ多カッタ、デモ、近年ハアタックスルコトモ多クナッタ。ワタシタチハアタックスルコトヲ好マナイ、守ルコトガ大事。」と、兵役前の素直な気持ちを語ってくれた。

 イスラエルでは、国家予算のかなりの部分を国防につぎ込んでいることから、国民の生活もけっして富にあふれた贅沢な生活ではないが、質素ながらももてなしの心がわたしの心に溶け込んでいくイスラエル滞在であった。

 イスラエルを語るにあたって、ユダヤ人の敬虔な物腰をはじめとする彼らの特質を語らざるを得ないのだが、まだまだ私自身の理解がそこまで(=わたしがユダヤ人のことを語る)までに至っていないので、その機会を待つことにする。〜異文化、そして単一文化の中で穏便に育ったわたしには、理解以上のものがあるので、語ることは遠い道のりであろうが・・・。

 確信できたことはひとつ、走ることへの気持ちは国境を越えて同じくするものを感じることが出来た。こんな市民交流をきっかけに、友人の出来たイスラエル国、はるかなる中東の国だけれどもとても身近に感じることが出来るようになって来たのである。


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<ティベリアマラソン情報> 
・ イスラエル唯一のマラソンレースで、イスラエル選手権として開催。
・ 12キロロードレース併催。
・ レースは例年1月の第一木曜。
・ 開催地は北部ガラリア湖畔のティベリア発着。湖の南側を半周して折り返し、同じコースを復路とする。ガラリア湖は、海抜−200mで、世界で一番低いマラソンレース。
・ エントリー料:マラソン(前月4日まで40USドル、レイトエントリー50USドル)
・ 年代別各クラスあり、3位までトロフィー授与。
・ web-siteはここ⇒http://www.iaa.co.il/E/Tiberiasmarathon/6.1.2005/Information.htm
・ 関連情報はここ⇒http://www.iaa.co.il/E/E.htm
・ 結果はここ⇒http://www.iaa.co.il/Results/2005/Tiberias%20marathon%206.1.05.htm
・ 2005年が第28回大会。
・ 歴代記録:男子Mogaes Taya=2:12:45、女子Marya Starovska2:34:17


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<ティベリアへの行き方>
 イスラエルの国際空港テルアビブ・ヤッフォーから、国鉄が発着、北上する線に乗り、ハイファ駅下車(約1時間20分)、そこからティベリアまでバス路線あり(約1時間)。または、テルアビブからの直行バスもあり(約2時間半)。ティベリアは温泉のあるスパ・リゾート地なので、シェラトンをはじめとするホテルがたくさんあるし、日本からも予約できる。


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<イスラエルへ、わたしの行き方>
 初めての一人旅、しかも行き先は中東。誰が聞いても首をひねるだろう行き先であることから、まったく誰にも触れ回ることなく一人で出発することにした。飛行会社の決定から航空券の手配、今はインターネットがあるのですべてディスプレイに向かって指示をするだけ。分厚いエイビーロードを繰る必要もなくなった。便利すぎるほど便利だが、これもまだまだハイテク社会の通過点なのであろう。

 しっかり検索して、慎重にフライトを決めた。何せわたしの目的地へは日本からは直行便は飛んでいない。どこかで乗り換えなければならない。いくら格安航空券であっても中東諸国の航空会社を使うことをやめ、ヨーロッパ系の航空会社にすることにした。ヨーロッパ国内で乗換えがあっても、同じ航空会社で行けること、これも次の条件になった。こうしておけば、通常大阪を出るときにカウンターで預けた荷物はより確実にそのまま最終目的地に送られるのである。そして、ヨーロッパ内乗り継ぎは同日便で。でないとその地での宿泊を余儀なくされてしまう。結局、何度か検索して見つけたのは、ルフトハンザ航空でフランクフルトまで行って、そこから引き返す形にはなるのだが、イスラエル入りする。気になる価格は15万円弱(空港税等諸経費を含む)。成田経由だともっと価格の安い航空券もあるのだが、年末年始の時期に東京まで行くことのほうがわずらわしい。関西発限定で探した。

 元旦の朝に関空を発つ。10:20の便だったので、家を出発するのは7時前となった。思ったよりも空港は空いていて、チェックインも荷物預けもスムーズだった。ルフトハンザ航空は全日空と提携しているので、全日空の係員が荷物を引き受けてくれた。ルフトハンザのweb-siteによると、預かってもらえる荷物は1個限定、20キロまで。団体ツアーだと多めに見てくれたりもするのだが、今回はまったくの一人なので、超過料金をとられたりするとこれは膨大であるようだから、スーツケースはなるべく軽く。ただ、お土産物をいくつか持って行きたかったので、それを全部まとめて段ボール箱に詰めて、機内持ち込みにするつもりだった。そして必需品のストレッチポール。これはどうしよう?透明のビニールにくるんで持ち手をつけ、これは荷物預かりのカウンターのお姉さんの判断に任そう。などと甘く考えていると、甘い考えはそのまま通ってしまった。スーツケース、ダンボール箱、ストレッチポール、おまけにダンボールを運んできたキャリーカートまで合計4点を預かってくれたのだ。ラップトップのPCを搭載したリュックとヒップバッグだけの軽装となり、足取りも軽く空港ロビーを通過して、出国者にのみ許される免税店などをぶらぶら見廻ったり、インターネットサービスでメールを送ったりしているうちに出発の時間になった。

 フランクフルトまでの飛行時間は12時間あまり。2回の食事が出て、3本の映画が上映されるという。膨大な時間だ。ヨーロッパってこんなに遠かったんだ。機内で食べたり飲んだり映画(「アイ・ロボット」と「シュレック2」が日本語吹き替えだった)を見たり眠ったりして退屈だったけれども、到着してみればあっという間の12時間だった。マイナス8時間の時差があるので、到着したのは午後2時半過ぎ。どんよりと曇っていて、夕方のようだった。

 体はもっとぼ〜っとしていて広い空港ターミナルをひと回りすると適当な長いすを見つけて、8時間の待ち時間を睡眠時間にあてることにした。フランクフルトはヨーロッパ各地への乗り継ぎの中心空港。多くの人が次の飛行機の待ち合わせに時間をつぶしていた。わたしの見つけた椅子はちゃんとフットレストがついていて、仮眠の出来る優れもの。いくらあつかましいわたしでも、長椅子に堂々と横たわっていたわけではない。トランジット客として電車で20〜30分くらいの市内まで出てみることも出来たが、なにぶん今日は店もしまっているということだし、すぐにあたりが暗くなりそうだったので、ターミナル内で過ごしていた。

 イスラエル線への乗り継ぎに際して、荷物検査&危険物検査あり。最近の世界的なテロの影響で、どこの路線も厳しくなっている。そして、3時間50分のフライトで、テルアビブの空港に到着〜〜。

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