ランニングレポ−ト |
2004年6〜9月月の参加大会ご報告
2004.6.7 千歳JAL国際マラソン |
フランスから帰国して中9日、この間にクォーターマラソンを快走し、再びわたしは空の旅をした。今回のレースは千歳JAL国際マラソン。フルマラソンにエントリーだ。「え〜、いくらなんでも走りすぎじゃないの〜〜??」仲間内からはみんなにそう言われた。 ![]() そんなわたしの動機は単純である。大阪発着の札幌フリープラン=航空機利用激安ツアーを見つけ、「これは行かなくちゃ損損!」と大阪人の根性を出し、ならばどこかのマラソンレースに参加したいな、と思って探してみると、ちょうどこの大会が見つかったのである。遠出をするならばやはり長い距離を走りたい、それに今シーズンはまだフルに未練が残っていた。しかしエントリーしてからこのマラソンコースのタフさに気づいた。中間点までずっとのぼりが続き、その高低差は200m、しかもほとんどが未舗装道路だという。 ![]() 前日から北海道入りをし、受付も済ませた。どこのマラソン大会に行っても、ランナーはよく似た雰囲気だ。違うのはしゃべっている言葉くらいかな〜北海道はほとんどなまりがなく標準語なので、お国言葉から感じられる地方大会というイメージは薄い。会場では北海道大学の石井好二郎先生のセミナーが開催されていた。何を隠そうわたしは彼の中学校時代の先輩なのである。もちろん同じ陸上部。でも、有名なマラソン指南本も共著している彼に向かって「石井くん!」とは呼び捨てにできない、丁重にご挨拶させていただいた。 北海道といってももう6月、日差しは強く暑い。が、このコースはスタートが青葉公園という広大な公園でスタート直後から木々の中。その後33キロ過ぎまでずっと森林浴が楽しめるのである。砂利交じりのほこりっぽい土道を走るが、木立のさわやかさが足元の悪さを軽減してくれるようだ。ペース設定もせず、気の向くまま脚の向くまま走っていた。1キロごとのラップを確認するとほぼ4分15秒前後で安定している。自分でも驚きのペースだったが、脚が動いたのでそのまま走り続けた。10キロを過ぎて折り返しの中間点まで200m上るはずだが、傾斜を感じない。ただ、砂利に脚をとられないよう、小さな凹凸にひっくり返らないよう、かなり神経を使いながら走っていた。 中間点を1時間半と30秒で通過、ここから200mを下っていくことを考えるとかなりいいタイムが出るかも?自分でも期待したが、くだりに入ったとたん、脚がうまく回転しなくなった。ふわふわと上体が浮いてしまい、体重が乗っていかないのだ。のぼりを調子よく上るために、少しばかり重心を引き上げて走っていたが、くだりになっての切り替えが出来なかった。おまけに脚にも来てしまった、気持ちよく上ってきたはずだが、前半のペースが速すぎたようだ。25キロを過ぎてさらに脚は動かなくなった。下り得意のわたしなのにまったく脚が前に出ていかず、ブレーキをかけるような走りだ。33キロを過ぎて森林間から出て、平坦な舗装道となったが脚はものすごい鉛状態だ。それでもなんとか前へ前へ。初めて参加する北海道のマラソンレースでイメージ悪く終わりたくなかった。照り付ける日差しはかなり強かったが、コース脇を流れる小川のせせらぎが気分を癒してくれた。ゴールゾーンのアナウンスが聞こえてきて、やっとフィニッシュラインにたどりついた。 |
2004.7.23 富士登山競争 3時間42分59秒(女子総合6位) |
![]() ![]() 富士山から帰ってきた直後は、「思い出すだけで、しんどかった〜〜〜下山道もさらにしんどさ倍々増だったので、二度といきたくない!」と、わたしらしくもない弱音を吐いていたものだ。しかし、レースから半月以上たって、何度も富士山の写真を眺めるたびに、「行ってよかった、登れてよかった!」とうれしい気持ちが沸いてきた。あの富士山に、ただただ山頂を目指して一目散に登っていけるなんて、なんて恵まれたレース。登山客も道をあけて応援してくれるし、山小屋でも貴重な水を振舞ってくれて、自分自身のウエストポーチの給水ボトルなど携帯不要であった。 わたしがランニングをはじめた当初の97年に、走友会の仲間が堂々参加して山頂付近の写真が「ランナーズ」誌に掲載されていたのでこのレースの存在を知っていた。そして、「いつかはわたしもこのレースに参加して登ってみたいな〜。」と、おぼろげなる憧れをいだいていたのだ。そのための下見と称して、「お手軽バスツアー」(夕方より5合目から上り、8合目で仮眠して、ご来光を見るツアー)にまで参加し、富士山の姿を足で楽しんでいた。2000年のことである。バスツアーで十分かも?と思っていたけれども、やっぱり走ってみるともっと楽しかった。 バスツアーでの下見からレース初挑戦まで丸4年、じつに長くかかってしまった。というのは、わたし自身あまり山に慣れていないし、のぼりも下り(レースでは下り部分はないが、山頂から5合目までは下山道を自力で下りてこなければならない)もオフロードは苦手意識あるので、こまったものである。しかも毎年5〜7月はオフを決め込んでいて、食っちゃ寝そのものの生活、とても富士山を走るどころではないのである。 ところが今年は様相が異なった。昨年10月下旬、シーズンイン直前に故障勃発し3週間の完全休養。シーズン中もずっとそのまま引きずり、満足にフルマラソンを走れなかった。冬シーズンを休養モードで過ごし、調子が上がってきたのはようやく4月のことである。そして上り調子のところで5月にフランス遠征、この勢いで「登っちゃえ〜」と参加決意となったのである。それにしてもほとんど坂道を練習していなかったのに、ぶっつけ本番でよく登れたものである。 「ぶっつけ本番」、これ、いかにも大阪のノリであるようだ。というのは、直前の「ランナーズ」誌に、富士登山競争の都道府県参加者別の完走率が掲載されていて、わたしの住んでいる大阪からの参加者の完走率はぎりぎり40%で、全国平均をはるかに下回る成績だそうだ。大阪からの友人たちと、富士吉田市へ向かう道中に「なんで、大阪のランナーは完走率、こんなに悪いんでしょうね?」と、その低成績について分析してみた。「そりゃ、大阪人は、軽いノリで、ほな富士山でも登ってみよか〜、とレースに申し込んで、練習らしい練習もせずに行くからでしょ!」と、解析され、わたしも同行者もみんな納得〜。 さて、そのレースは早朝7:30スタート。スタートで大阪からの知り合いのランナーさんに出会い、前のほうに並ばせてもらえて、スタート時の雑踏をすり抜けることができた。スタート直後の200mほどの商店街を過ぎると、金の鳥居をはじめとしてずらり鳥居の並んだ通りにはいり、なだらかな直線ののぼりが続く。さらに浅間神社の木立の中に入り、穏やかに左右にカーブしながらずっと続くなだらかな登り。走ろうとするのだが、足が重たくてスピードあがらず、どんどん人に抜かれてしまうが、なすすべがない。最初のエイド(5キロくらいかな?中の茶屋というところ)で、もうすでに、「こんなとこに来なかったらよかった。」と、めちゃくちゃ後悔していた。たとえ数十メートルでも軽く下るところがあるだろう、と期待して走りつづけるけれども、くだりは一切なかった。どんな山のレースでもわずかな下りくらいあるのに・・・・。 馬返し通過が59分台。このタイムはイメージどおりだったが、脚はがた崩れ。もう少し楽に通過して1時間以内、と思っていたのに、そのときにすでに鉛が入ったように重くて動かしづらい状態に陥っていた。走路もさらに悪走路になる。アスファルトがあってもあちこち亀裂が入っていて、足首が転がりかねない。さらにオフロードに入り、上っても上っても、のぼりばかり・・・土道ののぼりの真中に大きな穴(人工的に作られたもの、雨水が土道上を流れるのを止めるため?最初見たときは馬糞入れかと思った!?!)がいくつもあいていて、それを避けるようにして脇にそれて登るから、いっそう登りにくい。ほとんどいやいや登っていた。 これは走れるレースではないぞ、脚も痛めてしまいそうだ、だから5合目でやめようと決心して登っていたが、5合目チェックポイントがただの道路の上で、イメージしていた華々しい5合目とは違ったのでリタイアのタイミングを逃し、そのまま人の流れのままにまた登ることに。5合目というのは、山荘とか、おみやげ物やさんとか、いろいろある広場みたいなところ、と思っていたのだが、コース上にそんな感じのところはなかったためだ。(最後に下山途中で立ち寄った5合目はそんな感じのところだった。)おまけに5合目通過タイム(1時間51分)が予定よりもはるかに遅かった。〜あれれ?えらく遅くなっちゃった、いやいや登っていたので、脚は楽をしすぎたかしら?もうちょっと挽回できるかな? さらに登っても登っても、のぼりばかり・・・もうこうなったら登るしかない、と開き直っていたが、6合目を過ぎて岩場も多くなり、鎖や杭につかまりながらよじ登った。あまりにもしんどくて、ぼ〜っとしてきて、登山客のもっているストックや杖に手を伸ばしかけて、「あ、これは杭と違う、つかまったら私も登山客も転げ落ちてしまう」と、何度も我に返った。 後半は頭も痛くなり、体のバランスも悪くなり、斜度も急になったこともあって、いつのまにか両手両足で4つんばいになっても、さらに登りつづけていた。頭痛と身体のバランス不振。たいていこれくらいの高山病にはなるらしい、わたしは途中で止まらなくても動きつづけることができたので、ごく軽いほうだと思う。8合目手前で、先行の女性ランナーを一人かわすことができた。レース序盤で軽い走りでわたしを抜き去っていったわたしよりもはるかに若い女性だ。抜き返したからには、追いつかれたくない、わたしの走り歩きは小刻みなピッチだったが、ペースが上がっていった。8合目からゴールまでの予想時間は30分だが、9合目を過ぎても、ゴールがどこかわかりづらい。どこがゴールかなあ?絶壁の上に人の姿がたくさん並んでいる、あれはもう、山頂かなあ?と思いながら、ふた曲がりほどして岩場の間に走りこんだとき、「完走おめでとう、ここがゴールです!」 「自分の脚でここまでくることができた!」このことはとても嬉しかった。岩場のぼりからは、一生懸命がんばったけれども、前半の半分以上は、いやいや登ってしまった。このことはちょっと良くないな〜、でも、いやいやだったけれども、辞めずによかった。ほっとしたとたん、頭ががんがんして、岩の壁に寄りかかり額をくっつけていないと自分の頭がどこぞへ転がってしまいそうだった。身体のバランスもとりづらく、まっすぐに歩けない。しばらくの間、その場にうずくまっていた。 山頂で過ごす時間は、別世界だった。今年の山頂の気温は予想よりも温かく、15℃くらいあったようだ。(スタート前7時現在ですでに13℃あったそうだ。)日差しが強いので、寒さはまったく感じない。例年ならば10℃以下、寒いときには2〜3℃ということもあるそうで、軽装で汗をかいたままゴールするので、山頂にとどまっているのが寒くて、すぐに下山しないといけないらしい。今年の暑さのおかげで、山頂でゆっくりすごすことができたのはとても嬉しかった。ふとまわりを見渡すと、わたしよりも先にゴールした人でも、全力を使いきって、山小屋の中で転がっている人もいる。おいしそうにビールを飲んでいる人もいる。山頂でアルコールを飲むと、気圧と高度の関係で、酔いが廻るのが早いらしいけど、大丈夫かな?絶壁から顔を出して、いまあがってきた登山道を見直してみた。まだまだたくさんランナーが懸命によじ登ってゴールを目指している、自分もついさっきまで一生懸命登っていたんだ、「がんばって!もうちょっと!ここは雲の上のゴール!!」 後になって思い出すたび、すばらしいレースだった。天候にも恵まれ、かんかん照りではなくときおり薄日となり、日差しの強さを避けることができた。下山道で何度も山頂を振り返った。よくあんなに高い山の上に行けたなあ〜〜。「あほと煙はなんとやら〜〜〜」 多くのランナーの人に思う。ランナーである限り、一度は挑戦してみて、そして山頂を極めてほしいと強く願う。なんと言っても日本一の山! でも、もう一度走ってみろ、といわれると、私自身は、ちょっと待って・・・・って感じですけど・・・。 ![]() ![]() <富士山前のわたし> 4時間ほどの競技時間になるのだから、まず長丁場に耐えられる体を作るべき、と考え、6月、LSDの練習からはじめた。そろそろオフロードの坂道を取り入れねば、というときに体調を崩し、6月下旬に1週間の完全休養。あせっても仕方ないと休養できるようになったのは、最近のわたしの進歩だと思う。 本来の計画では、6月下旬に坂道練習をするつもりだったが、この期間を休んでしまったため、7月にはいっても、「トレーニング漸増の法則」からいきなり坂道練習はできない。ふたたびジョグでつないでから、思いついた練習は、「走れる舗装道の坂道ダッシュ」。ほんの600mほどの坂道を5本ダッシュするというインターバル形式のもの。この練習を一回だけ、やってみた。だけどこれは、息が上がっただけで、富士山に向けてはなんの練習にもならなかったように思う。 やはり定石はオフロードの坂道トレーニングであろう。ただし、どんな坂道であっても、富士山に匹敵するものはない、あの長い距離ひたすら登るだけ、そしてあの足場の悪さ。それでもオフロードの坂道よじ登りになれておくことは重要だと思える。 <富士山のちのわたし> 当然のことながらひざと足首をいためてしまったので、7月いっぱいは完全休養だ。そして8月に入って、生駒山(大阪と奈良の県境の600m余りの丘?!?)を走り始めたら、富士山のあの火山灰のがれきで砂地状態のずるずるというからだがずれ落ちる感触がまだ脚の裏に残っていて、身体のバランスもどこかおかしい。調子を取り戻すのにしばらくかかった。 お盆休みにはじめて六甲山系につれていってもらった。兵庫県の標高931mの六甲山を最高峰とする縦走のできる山だ。全山を縦走すると距離にして50キロ以上になるそうだが、今回は東半分の約30キロ余りをゆっくり縦走した。よじ登るようなオフロードが何箇所かあって、このような練習が富士山対策に有効だろうとはじめて知った。 |
2004.8.29 かっとび伊吹(アタックの部*山頂コース) | |
近年の8月最終日曜は何かとあわただしい。身辺が忙しいのではなく、ひと夏の終わりにいくつものマラソン大会が重なっているので、どこに参加するか迷うからである。私の住む大阪から日帰りで行けるマラソン大会に、かっとび伊吹・琵琶湖ジョギングコンサート(ともに滋賀県)・大江山マラソン(京都府)、ちょこっと一泊すると神鍋マラソン(兵庫県)、そして全国からランナーの集まる北海道マラソン。例年、秋からのシーズンに宿泊を伴う遠征が多くなるので、この時期からお泊りをするのは(家族に対して)かなり気が引ける、というわけで、電車で往復することのできる滋賀県あたりの大会を選ぶのである。 今年の夏は富士登山競争に初挑戦、で、その流れで、伊吹山にも登っちゃえ〜ということになり、6年ぶりにアタックの部にエントリーだ。6年前はよれよれになりながらも1時間20分ほどで登っていた。今年はどれくらいで登れるんだろう??タイム目標も設定せず、最後までしっかり登りきることを目標にスタートした。もちろん、オフロードの登山道に入るとほとんど歩きになってしまうのだが、歩きでもへばらずにしっかり足が動いてくれることが前提である。例年のようにこの時期はアップしているだけで汗だくだ。アップしなくてもいいくらいである、軽くスタート会場内ををまわり、ストレッチだけでのスタートとなった。 目標となる女性ランナーに愛知のF安Hふみさんが参加されていた、彼女とは昨年の御嶽マラソン以来の出会い。とはいえ、彼女との走力の違いは歴然なので、スタート直後からじきに視界から遠ざかっていく。福井のA宏美ちゃんも一緒にスタートした。いつもながらの北国美人で色がとても白い。ひとなつ過ごしてこの白さ。本当に色白でうらやましい。彼女もスピードランナーだが、今日は何とかついていけそう。アスファルト舗装された登山道を一緒に登っていった。木陰の登山道から視界が開け、ゲレンデの一枚目まで来た。チャレンジの部*三合目コースを走っているときは、ここを何とか歩くことなく走ってあがることが最大目標だが、今日は山頂まで登らなければならないので、あっさり歩きを入れてしまう。歩いてもいい、とりあえず上へ上へと体を運ぶのである。 三合目を通過して、いよいよ本格的登山道へ入る。めざす山頂は残念ながら雲の中。山の斜面にへばりついたように見える登山道を駆け上がる先行のランナーのカラフルなユニフォームがきれいだ。ほとんど歩きで体を上に上げていく。8合目を過ぎて、かなり足場も悪くなってきて、両手を使ってよじ登るところも出てきた。手袋を着用していないランナーが多い中、私はいつもの日焼け防止の手袋をしていたので、岩に手をかけ、木の根っこにつかまり、登っていった。登っているうち、両手&両足を駆使して山の斜面にへばりついていることがなんだかとても楽しくなってきた。夢中になって全身を使ってあがっていった。運悪く9合目以降霧と小雨が混ざって、土の出ている山肌や岩の表面がたいそう滑りやすい。アナウンスの声が聞こえてきたのでフィニッシュエリアが近いことがわかるのだが、霧の中。あれ?と思ったらもうゴールだった。 富士山を経験していたので、距離も所要時間も3分の1ほどの伊吹山はとても楽しかった。富士山のしんどさといったら・・・・何度思い出してもたいそうしんどかった。やはり空気の薄さが大きく影響しているようだ。 ゴールした後、くだりは三合目まで自力で降りなければならない。登山道のくだりが大の苦手の私は、人の迷惑にもなってはいけない、と思い、いち早く下り始めた。まだまだたくさん後続のランナーが山頂を目指して同じ道を登ってくる。「がんばってください、もう少しですよ、霧の中がゴールです。滑りやすいから気をつけてください。」などと声をかけながら道をあけてランナー優先を守るのだが、ランナーからは「女子トップの人ですか?」と言われてしまう、しまった、トップゴールのF安Hふみさんよりも先に下山を始めたので、上がってくる人から見れば、私が一番だったように見えたようだ。「すいません、F安さん、出過ぎた真似をいたしまして・・・どうぞ先に下りてください。」と女子トップに下山道をゆずったのは言うまでもない。「そんなこと気にしなくても。」とにこやかに返してくださるF安さんであった。 |
2004/9/19 歴史街道丹後ウルトラマラソン(60キロの部) |
![]() 市町村合併が進み今年の4月に誕生した京丹後市を舞台にしたこのウルトラマラソンも今年で4回目。大阪から近いようでも宿泊を伴う遠征だが、一度は走ってみたいと願っていた。もちろんわたしは60キロの部で十分だ。100キロに挑戦する走友がおおいが、わたしにはその力はない。60キロを走りきれるかどうかも危うい。 今年の夏は猛暑が続き、おまけに残暑も9月半ばを過ぎてもずれ込んでいた。今日も見事な天気だ。じりじりと照りつける太陽、予想最高気温は31℃とのこと。9時半スタートの60キロではいちばん暑くなる時間帯にゴール予定だ。 レースには、先週オランダの100キロのワールドカップに参加されたM宮M樹子さんも参加されていた。帰国されてから、まだ5日ほどしか経っていないはずだ。ウルトラの世界でも格別のM宮さんのペースはどんなだろう?走り始めてみたが、さすがに体が重そうだ、なぜならばわたしでもついていけるのである。体調のいいときの彼女には到底ついていけるはずがない、彼女との走力の差は歴然である。けれどもきょうは、彼女自身の本来のペースからはかなりかけ離れたペース(=だけれどもちょうどわたしの目標ペースくらい)で走っているM宮さんにうまくつくことができた。 レース序盤の10〜20キロまでのアップダウン(この区間でレースの最高地点を登りきり通過してしまう) を難なくこなし、わたしは一人旅になった。とはいえ、じきに先行スタートして同じコースをたどっている100キロのランナーに追いつき始めた。適度に民家もあり、人も応援に出てくれているし、エイドも十分にあるので、退屈はしなかった。が、30キロ半ばを過ぎて、100キロのコースと分かれて60キロランナーの単独コースをたどるようになると、突然ぽつんと一人になった。田園風景の中の緩やかなカーブのコースがとても遠くに続いていくように見えた。日陰もないし、暑さが余計に気になってきた。前にも後ろにも誰もいなくなって、道さえもあっているのかどうか不安が募るころ、うまい具合に走路員が立っていてくださったり、エイドがあったりした。 60キロランナーと100キロランナーのラスト10キロは同じコースをたどる。わたしは9時半スタートだが、100キロランナーは早朝4時半にスタートしてずっと走り続けて、同じコースにいるのである。わたしの目標は午後2時半ゴールの5時間以内完走。当然ペースが違うので追いついて追い越すことになる100キロランナーに「がんばって、10時間切れますよ。」と声をかけながら走った。 さらに強い日差しが照りつける。もうここまで来たら暑さは気にならない。60キロレースなのだが、60キロの距離表示のある地点を通過。実はこのコース、公式発表で800m長いそうである。というわけでラスト800mを走りきってフィニッシュ! 60.8キロのリザルトは、4時間53分。前半を引っ張ってもらったM宮さんは、アキレス腱をいためておられる&オランダの疲れもあって、彼女、最初は体重くてペース上がらず、40キロを過ぎてやっと5キロ20分台の調子が出てきたそうだ。なんというペースアップ。これが本来の彼女の姿。今日のレースが70キロゴールだったら、軽く抜かれていただろう。 わたしのタイムはこんなかんじかな?2年前に5時間走で62キロ走ったのが最高なので、そのときくらいのペースくらいかな?だけど、前半をごくわずかに速含みで入ったため、途中5キロごとの区間タイムが、45キロを過ぎたら25分を超えてしまい、どうしようもなかった。ラスト5キロはまた、24分ちょいに戻したけれども。 せめて4時間45分くらいで走れていたら100キロにも挑戦しようかな、と甘い考えだったが、打ち砕かれた。したがって、わたしの100キロ参戦はありえません。100キロマラニック気分になったらまた、考えることにする…。 でも驚いたのは順位だった。女子ではラッキーにも優勝だけど、わたしがゴールしてからあとにフィニッシュゾーンに帰ってきた男子選手に対しての京都放送レッツランのわかちゃんの可愛らしい声で場内アナウンス、「男子2位の選手が帰ってきました!」〜え?ということは、わたしの前にゴールした人って、男子1位の人だけ?ということはわたしって、男女総合2位!?!暑さが苦にならないわたしは、時にこういうラッキーな順位をあてがわれることがあるのである。つまり、朝9時半スタートのときから、蒸し暑く、日差しもかんかん照りつけていた〜真っ黒に日焼けし、テーピングの後がくっきり。次のレースのときには、このとおりにテーピングしないと、脚がシマシマに日焼しちゃう…。 |
2004.9.26 吹田中ノ島耐久5時間走(59.5キロ走破) |
丹後の後、23日にトラックレース5000mを18分39秒で走り、さらに5時間走。これは脚が重いはず。疲れもたまるはず…このあと、オーバートレーニングで風邪を引き込み、それが延々1ヶ月以上も治らなかったのである…。 ![]() ![]() ![]() ![]() ▲双子の妹(?)ぎんちゃん=双子くらい良く似ているといわれる |
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