レースレポート 02年10〜12月
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2002.10.13 御嶽マラソン 〜御嶽初優勝&高岡選手Wハッピ〜 |
4回目の挑戦にて、一度も歩きたいという誘惑さえ起こらずに、自己のコースベスト(3時間27分07秒)が出た。自分でも信じられないくらい脚が動いて、どんどん登ってくれ、女子総合優勝してきた。そんなに頑張ったつもりも無いのに、よくこれだけ走れたな、と、とても不思議な気持ちでこの結果をとらえている。(これまでのベストは98年の3時間31分、このときは最後に完全に歩いた。)
距離の確かな陸連公認コース、とはいえ、標高差約1200メートルを上るばかり、陸連登録番号を明記して申し込みするが、女子でまだ3時間15分を切った人はいない。男子の優勝タイムでも、やっとこさサブスリーという具合。
3〜4日前に初冠雪、と聞いていたので、どれほど寒いのだろう、と重装備で出かけたが、雪どころか、暑いくらいの気候になり、助かった。ほとんどの人は暑い、を連発していたけれどもわたしにはロングタイツ&長袖でちょうどよかった。
女子で、フルマラソンベスト2時間40分台前半の選手(岐阜のH田MK子さん)が出走していたのだが、10キロまでで背中が見えないほどの差がついた彼女に17キロ地点で追いつき、身体が前に出てしまったときには、自分でも驚いた。その後も抜き返されるに違いない、と思いつつ、無理をせずに自分のペースで走っていた。彼女はよっぽど調子が悪かったのかor練習に徹したのか、彼女のゴールタイムは彼女自身の昨年の優勝タイム(3時間26分45秒)から遅れること10分。わたしはたなからぼた餅のような優勝を拾った。
飛騨小坂より、JRを乗り継いで家に帰ってきておお慌てでテレビをつけると、シカゴマラソン、まもなく高岡寿成選手がトップに踊り出て、もう、わくわくどきどき。一時は世界最高?!?との期待も膨らんだが、それでも日本最高記録!!あぁ、もう感激!!!
というわけで、この日は、自分の御嶽マラソン初優勝と、大ファンである高岡選手の日本最高記録達成というWの喜びで夜遅くまで興奮しまくっていた。
今、わたしどうやら調子が良いようなので、これを崩さないように、後しばらく練習を続けて、東京女子につなげていきたいものである。御嶽終わってからの10月いっぱいが本当に大事なのだと、肝に銘じている。
いつもならこの時期までにすでに、練習でも頑張って走っていて、必死で追いこんでばかりいるのに、今年はそんなにしんどいと思うような練習もしていなくて、毎回気持ちよく練習を終えている。たぶん、練習で走るときに、設定ペースにこだわらずに、ちょっとしんどいな、と思うときはすぐにペースを落として走っているからかとも思われる。これが良いのか悪いのか???
レース数も減らしているので、実践的な追いこんで走る練習をまったくしていないと思うのが、自分なりの不安でもあるのだが、これがまた思い違いかもしれない。追いこんでばかりいるゆえの故障が多かったのだから・・・・
今まで、「練習で出来ないことがレースでは出来るわけが無い。」という気持ちが強くて、いつもぎりぎりのところで追いこんでばかりいた。そのことが、「あれだけ追いこんで走ってきたのだから。」という自信にもつながっていたのだが、また逆に追いこみすぎて体調を崩す原因になっていたのだろう。
なぜ追いこんでばかりかと思い返してみると、大人になってからのわたしが経験してきたことが、基礎スキーとジャズダンス。ともに技術が土台にあっての表現力を見せる種目だった。だからいつも、「練習で出来ないことが大会や舞台では出来るわけが無い。」と思って練習していたのだ。
とても不思議な気持ちで今の体調をとらえています。きっと体調が良いのだろうな、という自分自身でも半信半疑の気持ちである。だから、御嶽マラソンを走ってのちの疲労度もよくわからない・・御嶽一緒に走った友人に「筋肉痛無いの?」と訊かれたけれど、「ぜ〜〜んぜん!」と答え、「僕は脚痛い。(=筋肉痛)」という彼と一緒にゆっくりジョグし、リフレッシュも気持ちよく出来る。
今シーズンこそ、最大の目標は、シーズン最後までちゃんと体調を崩さずに走れること。大阪女子マラソンも記録的には寒さが苦手なわたしはそんなに望んでいないけれども納得できるように走って、招待が来ている泉州マラソンも自分なりの走りを出来たら良いし、3月にもう一度フルマラソンを走れたらいいな、そして、気持ちよくオフシーズンを迎えられるように・・・・
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2002.11.2 吉野川ハーフマラソン 1時間22分7秒 |
奈良の吉野は時雨れて寒かった、わたしはもちろんロングタイツ&長袖にランシャツの重ね着で出走。多くのひとが寒かった、といっているけど、寒いんだったらどうして暖かい服装で出走しないのかな、ととっても不思議。
練習で昨年よりもずっとペースも量も落として走っていたし、ハーフは今年の秋初めてなので、まったく自信がなかったのだが、誰を目標にするわけでもなくただひたすら自分の身体と相談しながら無理のないペースで走るつもりで、その通りに脚が動いてくれた。
結果、ちょっとだけ自己ベストの1時間22分7秒。ラスト3キロほどを、ここで頑張って疲れを残してもいけないし、流してもいいか、と、楽に走ることに徹したのだが、最後流さず必死で頑張ったら21分台だったと思うと、ちょっと残念。でも、一生懸命頑張るのは、2週間後の東京だけだと思うと、気合はいってくる。
このレースの直後、友人からアドバイスしてもらった「自信の大きさは実績に比例する、という考え方は誤り。」ということ、わかるような気がする。わたしの場合、レース数が多いのに、いつもレースで結果を出すことばかり気をとられて、練習とうまくかみ合っていなかった。
東京女子マラソンまであと2週間を切った、この期に及んで体調を崩さないように、上げていけるように願っている。そしてその手段は・・・・坐骨神経痛対策の電気座布団を持ち歩いている。
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2002.11.16 東京女子マラソン 2時間54分02秒 |
過去三度走って、2時間54分台、55分台、56分台、とわたしの中でのベスト3のマラソン記録はいずれも東京のコースのものである。寒さにとことん弱いわたしが、体調を合わせやすいとも言えるだろう。今年こそ4年ぶりの自己ベスト更新を狙って、満を持しての出走となった。
レース後半35キロ以降失速したけれども自分では「つぶれた〜」という感覚ではなかった。身体のバランスこそとりづらくなっていたものの、しっかり脚を動かしているつもりだったのだ。タイムはわずかながら自己ベスト。競技場内を必死で走ったのだが、最後、目の前で計時が53分から54分に変わり、53分台にも届かなかった。
走り終わって意識が遠のいて、毛布三枚にぐるぐる巻きにされ、「この子、冷たくなっているから暖めて、暖めて。」と言う声が耳に届いて、「わたしゃ〜、死体じゃないよ〜。」と冗談のように意識の底で反応していた。
救護室に運ばれ、じわ〜っと暖かくなって眼をあけてみると、直前の故障にもかかわらず3時間4分台で完走してきた我が妹が心配そうに覗き込んでくれていた。わたし:「あんた、脚だいじょうぶ?ここで手当てしてもらったん?」と尋ねると、妹:「そんなことよりももっと重症の人が多くて、誰も相手にしてくれへん。」と、これまた冗談のような姉妹の会話であった。
今回、自分なりのペースで無理をしないように10月やってきて、吉野川ハーフも楽に走って最後流して、(だから1時間22分台でも、あと数秒で21分台に届いたこともぜんぜん悔しくなかった、次ぎに東京で頑張ればいいと思ったから)、ちょこっとしたアクシデント(かかとを怪我してしまい、腫れてシューズをはくのが痛かった。診てもらうと、かかとの角質化した部分が裂けている状態で、外科用のテープで裂け目を張り合わせてもらった。裂けた部分に体重がかかって、口が開いたままだったので痛かったのである)で1週間前の調整練習が出来なかった。
そこのところを自分でLSDに変更した。しかも起伏のあるところで。いつも走り慣れているから、という理由で。これが調整の失敗か?フルマラソンレース1週間前には、起伏走は避けたほうが無難、というアドバイス、後にいただいた。また、2週間前の吉野川ハーフでの走り、スピード感を味わいすぎて速すぎ、という指摘も。後2週間、という残りの期間、今までの練習での設定ペース、年齢(による疲れの取れ具合)、等々考えるともっと流しても良かった、というアドバイス、これも後にいただいた。
東京でのペース配分も、今から考えると、予定よりもちょっと速含みだった。メルマガのBEST
RUN
136&7の、失敗例の典型かと思う。集団で走っていて、その中での位置どりを気にしてチョロチョロしたり、給水に気をとられ手前に出てみたり、余計な脚を使ってしまっていたと思える。前半から集中していて、集中しすぎで、要するに「肩に力が入った走り」だったといえる。タイムをクリアしなきゃ、上げなきゃ、という意識が無意識に働いていたようだ。前半はもっとリラックスして、らくに設定ペースを走るくらいでないといけないようだ。
とどのつまり自分を過信しすぎるところに、失敗がやってくるのだと思える。
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2002.11.23〜24 晩秋の連休は紅葉見物レース |
大きなフルマラソンレースを終えた後は、紅葉見物レースなどで遊びまくり〜〜、とはいっても土曜&日曜と夕方4時から&夜の8時〜9時と仕事なので、おお慌てで帰宅しなくてはならないのがタマにキズ。
初日は兵庫・一庫ダムマラソン10キロを走って、38分03秒。5分以上更新の大会新記録だとアナウンスあり。それもそのはず、関西屈指の大規模マラソン福知山と翌日は阪神間の尼崎マラソンに重なっているのだから穴場中の穴場といえるだろう。ラスト1キロを3分40秒で走ったことになっているが、ちょっと距離が不足かも。久々の10キロレースだが、未公認ロードだと距離がわからないので、比較しようもない。
翌日は三重県・忍者の里上野シティマラソン3キロで、10分49秒。ラスト1.2キロほどだらっと登っていて、3分44秒かかっている。ゴール手前20mくらいのところで、途中で抜いたはずの女子中学生に抜かれてしまった。わたしも切り替えてふんばったけれどもそのまま半歩下がった団子状態でゴール。毎年、このように忍者の末裔とも言うべきすばしっこい中学生に先行され、万年2位。今年の優勝は1500m専門の中学陸上部の女の子で、ベストは4分51秒と教えてくれた。ついでにおかあさんの歳、たずねたら、41歳だと答えてくれた。
総合の表彰式では、1位中学2年生、2位わたし、3位中学1年生、そろって舞台に並んで、どう見てもコリャ、女子中学生と付き添いのおかあさん、って感じで、かなり恥ずかしいものがある・・・。
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2002.12.1 奈良大仏マラソン(5キロ&仮装の部) 19分31秒 |
直前の走る友達からのメールに、「昨年は仮装して走って、楽しかった。」と書かれていたので、わたしもやってみようと思いついた仮装ラン。ちょうど、手作りのプーさんの装束があったので、12月クリスマスシーズンでもあるので、サンタの赤い帽子をかぶせてみた。
ウォーミングアップを終えて、更衣テントでプーさんに着替えて、会場を横切ったとたん、奈良新聞社の記者の人が追っかけてこられて取材を受け、ばっちり写真も撮ってもらった。「お歳は?」と聞かれ、「42歳です!!」と元気よすぎる答えをしてしまい、我ながら恥ずかしかった。〜さっそく翌日の朝刊に写真掲載されたようで、奈良在住の友人がメールくれ、さらに本紙を送ってくれた。
小さい子供も「プーさん頑張って〜。」と応援してくれたり、知らない人も写真をとってくれたり、プーさんのしっぽにタッチされたり、とっても楽しかった。観光客の人も注目してくれたみたい??・・・仮装ランはこれくらいギャラリーの多い大会でするのが正解かな!
着ぐるみプーさんの装束だったが、軽くて結構走りやすい格好だったので、走りのほうも頑張った。頑張って走りすぎて速すぎて、審査員の目にも留まらなかったのか(?)残念ながら仮装の部入賞は果たせなかった。じつは、仮装の部の優勝商品は、「折りたたみ自転車」!!走りのほうで頑張って走って1等賞になっても、「佃煮3点詰め合わせ」・・・これは来年からもっと頑張らなくちゃ!もちろん仮装の部である。「アイデア」「ユニークさ」「大仏マラソンに関連していること」などが審査のポイントだそうで、「傾向と対策」を怠ることなく、1年がかりで用意周到に準備だ〜〜。
追記:<20年ぶりくらいで同期生夫妻に出会う>
ギャラリーを楽しませた仮装ランナーに、「特別賞」が贈呈されるというので、気合を入れて、「くまのプーさん」の着ぐるみで走り、さらにアピールしようと会場をうろうろ・・・すると、大きな声で「ロコ!」(=幼稚園時代からのわたしのニックネーム)と呼びとめられ、振り向くとそこには、同期生夫妻が。
大卒で入社した最初の会社の同期生同士で結婚した夫妻である。その後早い時期にわたしも彼女も会社を辞めてしまったが、ずっと年賀状のやり取りはしていて、二人が結婚後奈良に住んでいることも知っていたし、わたしが走り始めたことも知っていてくれて、ご主人が元陸上部だったので最近ジョギングを始めたことも知らせてくれていた。
子供さん2人も一緒に来られていて、もう、長女さんは中学生。おとうさんと一緒にファミリージョギングに参加したりするそうである。このように子供が大きくなっていても、同期生二人ともちっとも変わっていなかった。わたし、何が恥ずかしかったといえば、こんなに久々の出会いに、くまの着ぐるみを着ていたこと・・・・「おとうさん、お母さんと同期生なんですよ〜〜〜。」と言うと子供さん2人、ちょっと引いていたような・・・・???
追記:<大仏マラソンその後>
火曜日から発熱、扁桃腺には細心の注意を払っていたのに、今回の風邪は筋肉痛から来た。大仏マラソン翌日の月曜日、足腰全体に異様な筋肉痛、「おかしいな、昨日は大仏5キロ走っただけなのに??」と思い、夕方いつものようにジョグ。なんだかおなかが空いて夜半までもぐもぐ食べつづけていたら、火曜の未明に胃痛で目覚める。「こりゃ食べ過ぎに違いない。」と「だらにすけ」(=奈良県天川村泥川温泉の胃腸薬)を飲んでみるも収まる気配なし。動くとむかむかするので、仕事も休ませてもらい、お昼に余りの頭痛に熱を測ると7度4分。風邪だと気がついた。
木曜日、ふらつきながらも12キロジョグ。自分でも本当にふらふらしていてまっすぐに走れないくらいだった。金曜日、元気いっぱい12キロジョグ。行きつく先は忘年会だったから〜
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2002.12.8 大阪女子30キロロード 1時間59分34秒 |
この大会は心理的にも大変プレッシャーを感じる大会である。物々しい警戒(?)とも言えそうなくらい、陸協の先生方がたくさん出てくださって、厳しい目で見られているような・・・?気にし過ぎかな?コースも単調な3キロ弱の周回で走りづらいし・・・距離表示は5キロごとだし・・・あくまでも練習と位置付けているので、前日に大阪市民マラソン5キロも走っておいた。風邪あけなのでレースでペースをつかむために走って、19分54秒だったので、ほぼ目標どおり。
さてその30キロレース、最初は身体が重く動かなかったし、ペースも速くなくて良い(5キロを20分半くらい?)、と思っていたので、後方からぼちぼち行っていたが、中盤から脚が突然動き始め、自分でもこんな走りは始めてなので、ちょっと頑張って行けるだけ行ってみよう、と調子を上げていった。タイムはともかくとして、レース展開に驚いている。
その後は淀川ランナーズのメンバーと忘年会。何年か前、夜7時に自宅最寄の布施駅まで帰っていたのに、家にたどり着いたのは10時だった、という空白の3時間を輩出したいわく付き(?)の忘年会なので、今年は注意して、飲みすぎないように・・・
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2002.12.15 三田国際マスターズマラソン(ハーフ) 1時間22分31秒 |
寒がりのわたしが恐れていたのは、氷点下に近い三田の冷え込み。だけど予想に反して当日は気温九度だった。三田にしては北風がなくて、気候条件は良かっただろう。
それでも、神経痛もちのわたしはロングタイツ2枚重ねで走った。みんなに「暑くない?」といわれ、ちょっと汗をかきながら走ったけれど、このタイム、総合2位、自分でも疲れの出始めた体調で良く走れたものだと思う。直前の水曜日の練習はなんとかこなしたものの、その後神経痛がひどくて、ほとんど走れなかったのである。女子の総合優勝は地元三田市の方、1時間19分ちょっとのすばらしいタイムだった。まったく付いていける相手ではなかったので、おちついて自分のレースが出来た。
表彰式も終えて、会場内のコンバースのブースで女子の総合優勝の方と出会ったので、わたしのことだからぺちゃくちゃおしゃべりに花が咲いていた。そうしているうちに、ステージのほうから「小川裕子さん〜〜」とわたしの名前を呼ぶ声が・・・(おしゃべりに夢中になっていても、自分の名前が呼ばれたら、なんとか耳に届くものである)「あれ、もう表彰もしてもらったけど??また、忘れ物でもして呼ばれているのかな?」と思い、あわてて舞台のほうに走っていくと、「おめでとうございます〜〜ホノルルマラソン当選です〜〜〜」本当にびっくりした。三田マラソンでは、部門別優勝者対象の抽選で、ホノルルマラソンが当たることになっているのだが、そんなことをすっかり忘れて、おしゃべりばかりしていたのである。
それに三田のレースでは、とても元気になる出会いがあった。いつもブラインドランナーの伴走をされている大阪の永田さんという方と、言葉を交わす機会があったのだ。それまでにも何度かお姿にお目にかかり、お元気そうなおじいちゃんだから、おしゃべりしてみたいな〜と常々思っていたのである。
ハーフのレースを終えたわたしは、もてなしのトン汁で腹ごしらえをした後、クールダウンと後続ランナーの応援を兼ねて、コースを逆走していた。ラスト3キロに近い18キロ地点の関門まで来て、「関門閉鎖まで後3分です、早く通過してください〜〜。」というアナウンス。それが「後2分です〜〜。」になり、「後1分!!」となったとき、永田さんが小刻みだけれども確実なピッチで通過。まわりのどのランナーよりも元気そうに見えた。
わたしはその場に立ち止まり、関門閉鎖までその地点で後のランナーを応援して、コース上前方を見やると永田さんの姿がはるか前に進んでいた。わたしもなんとか追いついて、
「いつもお元気そうですね、あちこちでお姿拝見しています。」と声をかけた。
「ハイ、74歳、辰年生まれ、元気に走っています!」としゃきっと伸びた背筋から良い声が。しっかりした足取りで、どんどん前のランナーを追いこしていく。前のランナーというのは、ゴールまでの最後の18キロ関門を通過したことで安心して力尽きたのか、ほとんど歩いている人が多かったのだ。
「すごいですね、ごぼう抜きですね。」とまた声をかけると、永田さんは、
「わしら、一番後ろから出ているから、まあ、抜いていく一方ですわ〜〜。関門もほとんどぎりぎりで通過しているし。」と言いつつ、抜いていくランナーひとりひとりに「頑張って完走しましょう。」と声をかけておられた。
「こうやって声をかけながら、自分にもハッパをかけてるんですわ〜。」とまた明るい声。
「先月は福知山走って、これは盲人ランナーの伴走でしたけど、その後那覇マラソン走って、レース続きでちょっとばててます。」とおっしゃるものの、なんの何の、そんなにレース続いていたら、若い者だってばてばてである。
「そんなに走って、おうちの方、心配されませんか?」と失礼ながらたずねてみたら、
「いやあ、もう、あきらめてますわ〜。」とこれはどこの走り好きのご主人の家庭でも同じことのよう。だけど年齢が半端じゃない〜〜〜
「74歳でいらっしゃって、介護保険も何も、関係ないですね。保険料、払う一方でしょうね。」とわたしの職業柄、つい、こんな質問が・・・・
「いやあ、悪いのは頭ですわ〜、走りきちがい、言われてますから〜〜〜。ゴールでは孫も待っていてくれるんです。」とおじいちゃんらしい嬉しい声。並走するうち、ラスト1キロ地点手前で
「おじいちゃん!」と小学校低学年くらいの男の子が双眼鏡を胸に大声援。遠くから走って帰って来るおじいちゃんの姿を待っていたのであろう。
「やあ、こんなとこまで来てくれたんか〜、走ってゴールするぞ。」との嬉しそうな永田さんの声につられて、孫である男の子も走り始めた。
「なんだかペース上がっていますよ。」と知らせると、
「ああ、そうですか、そんなつもりないのに、ゴールに近づいて、気持ちが高ぶってきてるんですなあ。」と自然に身体の中から湧きあがる力で走っておられる様子が、とても新鮮であった。男の子といっしょに歩道を走りながら、
「おじいちゃん、すごいね。20キロも走ってきて、もう後最後の1キロだよ。ボクもついて走れるかな?」とかなんとか声をかけていた。最初はにこにこしながら走っていた男の子も、ゴールに近づくとだんだんしんどくなってきたのか、表情も真剣に・・・ともすれば永田さんのほうが先に行き過ぎてしまい、姿を見送る形になってしまう。でもなんとかかんとか、ゴール地点の運動場まで来て、グランドを半周するおじいちゃんを見やって、
「おじいちゃん、今ゴールだ。」とほっとした様子でつぶやくお孫さん。自分もここまで走ってきて、かなりくたびれたようで、それだけにいっそうおじいちゃんのしっかりした走りが心に残っているようだった。
たくさんの人に出会って、元気でいられること、本当に嬉しく思う一日であった。
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