ランニング・レポ−ト 

2002年3〜6月

  
 

 2002.3.21 壷阪寺〜高取山〜芋峠〜明日香石舞台マラニック(奈良)



 久々にリュックを担いで、ランニング仲間とマラニックに出かけた。走りの中でもリズムとバランスを重視す
るわたしは、給水ボトルや着替え・洗面道具を入れたリュックを背中に担ぐとそれだけで身体バランスを崩しや
すいので、ずいぶん長いこと、マラニックにはご無沙汰だった(2年ぶりくらいかな?)。
 でも今日は、初心に戻って、走ることよりも歩くことを目的に、身体のバランスを再確認するよう、意識して
参加することにした。

 雨予報が出ていたので、当初予定されていた多武峰までいかずに、高取山から芋峠経由、かやの森に下りて、
最後は石舞台の近く、橘寺の裏にあるお風呂にゴール。
 本来近鉄壺阪山駅に集合のところ、わたしが言い出しっぺで、八木駅から平坦な道を走っていくメンバーを募
り、プラス約7.5キロ、たくさん走ったように思えたが、登りはほとんど歩いたし、20キロくらいの行程
だった。

 景色絶景かな、の芋峠では、遠めからみるとランナーの服装をした人たちがしゃがみこんで山菜取りをしてい
る??と思うと、「明日香古京走ろう会」のご夫妻だった。彼らにとっては自分の庭のようなこのひと山、里か
ら走ってきて山菜を摘んで、そしてきっとそれが夕食の食材になるんだろうな、すてきな自然人の生活だ。
 
 ひさしぶりのオフロードだったので、全身が疲れたが春景色の山並みと空気が新鮮だった。ランニングシュー
ズの選択を誤り、厚底のクッションの柔らかい目を履いていってしまったので、バランス悪く、走り疲れた。オ
フロードは、厚底のクッションの堅い目が良いように思えた。



                     

                                                 

 2002.4.7 春の福井駅前マラソン(ハーフ)      1時間25分27秒


 大阪から、福井駅前マラソン、日帰りで行ってきた。特急サンダーバードではなく、片道4時間の珍道中。何
をたくらんだかといえば、交通費の節約を兼ねてJR各駅停車の旅。これがなかなかオツなもの。春休み期間限
定発売の青春18きっぷを利用して、大阪〜福井間往復2000円であげてしまった。

 青春18きっぷとは、その名称に惑わされてはいけない、大学生でなくても使用可、要するに今が青春!と
思っている人ならだれでも利用できる、JR全線普通列車1日乗り放題の切符5枚つづりで11500円のもの。春・
夏・冬の学休期にあわせて期間限定で利用できる。わたしは友人の持っていたこの切符の最後の一枚を、格安で
譲り受けたものだから、さらに割安感が増していた。(青春18きっぷのくわしい情報はこちらから
⇒http://www02.u-page.so-net.ne.jp/sd5/hanbei/)

 各駅停車で福井入りするために、6時23分に大阪駅を出て、最初は快速列車利用。京都から各停で湖西線ま
わり、近江今津や敦賀など、聞きなれた駅名の駅で止まりながら、福井入り9時59分。富山県極楽坂スキー場
や滋賀県奥伊吹スキー場で長年スキーインストラクターをしていたころからよく通った道中なので、そんなに遠
く感じることなく、むしろ意外と近いような感じがした。雪深い湖西から湖北の冬が終わり、春の息吹を感じさ
せる風景を存分に楽しむことができた。

 福井駅前マラソンと銘うっているだけあって、スタート位置は福井駅からわずかジョグ1分のだるまや西武
前。スタート11時にあわせて大慌てで出走準備だ。福井でも桜が満開を過ぎ、花びらがあちこちで散ってい
る。心配されていた雨もあがり、今日も暖かいめの気候で良かった。
練習仲間のMKちゃんとはスタート直前に会えた。MKちゃんたるリッチなOLは、特急運賃をケチるはずがな
い、7時12分大阪駅発のサンダーバードでわずか2時間足らず、9時前にはちゃんと福井に到着しているのであ
る。

「ヒロ姉(=わたしのこと)、練習のときの格好そのまんまやん!」
「だって、冷えると嫌だもん。」(気温19度だが、ハーフスパッツにロングタイツを重ね、長袖に手袋着用、
暑くなるかもしれない予想より、内側からやってくる筋肉の冷感のほうが心配なのである。)

「と言いつつ、追い抜いていくんやろ〜。」
(私の申し込んでいる一般の部は、MKちゃんのカテゴリーの公認の部より2分遅れでスタートするため。)
「う〜ん、最後の最後でMKチャンに追いつけるかな〜って感じ。」
(週2回、一緒に練習しているのでお互いの調子やペースはよくわかる。)

「すぐ、追いつくわ〜、ヒロ姉元気になって来たみたいやし。」
「なんとかね〜、でも大阪シティハーフのときのMKちゃん、迫力あったよ〜、早々にわたしの隣をピュ〜ッと
追い抜いていったし。あのあと、一生懸命、MKちゃん行けーー!!って、心の中で追い風送ってたんやよ。」

「えー、後ろから引っ張ってたんとちゃうん?」
「そんなことするわけないやん、あのときのMKちゃん、ほんま、すごい気迫やったわ。」
「ヒロ姉が、調子悪すぎただけやん。」

「でもMKちゃん、このごろちょっと調子悪いよね〜、無理せんと、ゴールまで走ったら入賞間違いなしやから
!」
(公認の部は、8位まで表彰あり、10名エントリーのところ、大阪から参加の別チームの友人が欠場と聞いた
ので)

「そら、(入賞とかは関係なしにしても)ゴールまでは止めんと行くわ〜」
「がんばりや〜。」

と、明るいMKちゃんを見送ったのだった。

 さて、レースでは、同じカテゴリーに三重マスターズの同い年の人がいたので、(彼女、先月の名古屋女子マ
ラソンを3時間00分台で好走、昨年のマスターズ駅伝W40区間4位、わたしは5位。今年は2週間後のマスターズ
駅伝には行かないということを、スタート前に言葉を交わした)、「これはどこまでついていけるかな???」
と、とにかく彼女を目標に走り始めた。

 早々に息も上がり、いまの自分にとっては速すぎるペースか、とも思われたが、とにかく行けるところまで行
こう、と。 スーパーフラットの福井のコース、それでも橋へのほんの十数メートルのゆるやかなのぼりや、途
中の給水所で、何度も彼女から離れるという、情けないわたしの脚力。

 「もう、離れても仕方ないか、今の自分の力はこんなもんだ。」とあきらめかけたところに、1箇所だけある
ごく短い折り返しで前方に練習仲間のMKちゃん発見!!!
 まだ12キロを過ぎたくらいのところだったので、余りにも早く2分前スタートのMKちゃんを発見したことに
まず、驚き。MKちゃんの調子はどうだろう?と、心配にもなってくる。折り返してきてMKちゃんも、わたし
がすぐ後方にいることに気付く。トップの女子選手とわたしが離れかけているのを見て取ったのか、声援送って
くれて、私も声を掛けて。それがもうひとふん張りする力になった。

 15キロでほぼ、前の女子選手と並び、ラスト6キロの表示を見たところで、身体が自然と前に出てスパート。
「あと6キロのロングスパートはちょっと長すぎるかも。」と不安でもあったが、「いつもの練習コース、4周
分!」と思い直し、走っているうちに、MKちゃんに追いついた。
 「MKちゃん、来たよ!」と、MKちゃんへの声援もこめて声を掛けたとき、MKちゃんも何か答えてくれた
と思うけど、残念ながらわたしの耳には届かなかった。

 そうしているうち、ラスト5キロの表示。「今度の駅伝、わたしの走る第1区は4.9キロだ!今からスター
トだと思って頑張ろう!」と。ラスト3キロくらいからは、偶然、ペースの合う男性に並び、必死で走ってい
た。そのままその男性とゴールまで一緒、わたしが余りにもハアハアゼイゼイで走っていたから、
ゴールのあと、「よう頑張るなあ〜。」と言われてしまった。

 このハーフの自分なりの目標は、順位も何も関係なく、1時間25分台だったからである。4月21日の全国都
道府県対抗マスターズ駅伝(鹿児島大会)は、わたしの中での駅伝の最大目標の大会だ。昨年11月より坐骨神
経痛再発して、冬シーズン満足に走れなかった。いったんは駅伝出場の要請をお断りしたのだが、やはり復調を
期待されて、メンバーに入ることになった。駅伝を走ることになったからには、もうそろそろ練習を始めなけれ
ばならない・・・急いてはことを仕損じるということを肝に銘じながら、練習に取り組み始めたのが、3月中
旬。何とかここまでこぎつけた。

 あと2週間。けれども、今年わたしの走ることになっているW35の区間には、5000MK16分台の人も
走るし、17分台当たり前、18分台はごろごろ居て、19分台のものなどおよびではない区間。いまのわたし
の走力は、やっと19分台。しかし奈良マスターズに拾ってもらったわたしとしては、出来るだけ頑張りたいの
である。

追記:奈良マスターズ所属のわたし
 マスターズ登録を、居住地で登録するならば、当然大阪登録のはず。実際当初2年間は大阪マスターズで登録
させてもらっていた。そのころ、全国都道府県対抗マスターズ駅伝という大会があることを知り、駅伝メンバー
も各都道府県マスターズ連盟の選抜だという。 

 高校時代にインターハイを目指していたものの、全国大会などとても近づけなかったわたしとしては、是非、全
国大会というレベルに触れてみたい。しかし、当時わたしの登録していた大阪マスターズには、全国レベルの看
板選手やらスター選手がごろごろしている。せめて、万が一の補欠のはしくれのまたはしくれとしても、声すら
も掛からず、「やはりわたし程度では無理か・・・。」と、それでも自分なりに頑張ろうと思っていた矢先、奈
良マスターズのおえらいさんから声を掛けていただいた。勤務地の関係で奈良県内の大会によく参加していたご
縁だろう。

 最初に誘っていただいたのは、これもまた全国レベルの選抜の勤労者釜石駅伝だった。当時奈良県内在勤だった
わたしに、参加資格があるというのだ。はじめて勤務先所属長の許可印をもらい、奈良マスターズのメンバーと
一緒に、はるばる岩手県釜石まで駅伝を走りに行った。はじめて出会う奈良マスターズの人たちはみな親切で、
わたしを仲間に迎え入れてくださった。

 そしてその翌年度から、私は奈良マスターズ登録となった。なかに入ってみれば、スペシャリストがいっぱい
だ。特に女性陣では、砲丸投げの年代別マスターズ記録保持者、200Mと400Mの年代別マスターズ記録保
持者、そして5000MのW50のマスターズ記録を塗りかえたK姉さんなど、刺激を受ける人は大勢いる。K
姉さんのハーフマラソンのベストには、10歳以上年下のわたしも今現在一緒に走ったとしても到底及ばない。
そんな皆さんがわたしにも「しっかり頑張ってね。」と声を掛けてくださるのだ。

 その後、山形・石川・三重大会と3年続いてスポレク(=全国スポーツレクリエーション大会)マスターズ陸上
の部に、奈良マスターズとして参加させていただいたり、富士見高原勤労者ロードレースに誘っていただいた
り、と、本当にお世話になってきた。スポレクのおかげで、全国に友人も増えた。そんなわたしを導いてくれた
奈良マスターズに、人の出会いとご縁のありがたさを思う。いま自分に出来ることは、マスターズ駅伝に向け
て、出来るだけ調子を上げていくことなのだ。



 

 2002.4.21 全国都道府県対抗マスターズ駅伝(鹿児島大会)
第1区女子35歳以上の区間(4・9キロ)          18分09秒



 この冬場のように、思うように走れず、脚の故障も回復が遅れているときって、ほんとうに世の中真っ
暗〜〜〜〜って感じ。一日中ふてくされていたい気分だが、そんなことばっかりはやっていられないし・・・。
多くのランナーが経験しているだろう坐骨神経痛がその原因。

 故障してしまうと、ほんとうに泣き言ばっかりで、お恥ずかしい限り。でも、これももう、2度目の激・故障
なので、気長にやらざるをえない。わたしは泳ぎが出来ない(平泳ぎならかなり泳げるが、クロールが出来ない
ので、サマにならない)し、スポーツクラブにも行っていないので、ちょっと運動不足か???私の神経痛は温
めるとましなので、大阪国際女子マラソンも欠場して、ひたすら春を待ちつづけた〜そんなころ(1月下旬)に
やってきたのは、全日本マスターズの駅伝鹿児島大会出場の要請。昨年に引き続き、2度目の参加要請となる。
昨年11月より坐骨神経痛再発して、冬シーズン、文字通り冬眠中である。いったんは駅伝出場の要請をお断り
したのだが、やはり復調を期待されて、メンバーに入ることになった。

 わたしの年代からして、昨年に引き続き、第6区・女子40歳以上の区間、と思っていたら、2月下旬のメン
バー編成で、今年はなんと、女子のもうひとつの区間(第1区・女子35歳以上)のDさんと、「交代」、する
という。奈良のチーム事情として、マスターズ駅伝の女子メンバーは2人とも同い年で41歳。つまりどちらが
どの区間を走っても、チームとして認められるのである。しかし例年、実力の勝るDさんが、女子のエース区間
を走って下さっていた。

 ところが今年はわたしが第1区に抜擢!!さあ大変!昨年の駅伝を振り返ると、女子の第1区の人たちはもの
すごい勢いで走り始め、鈴なりになってコースに出て行き、帰ってきた時は息も絶え絶えで芝のグラウンドに倒
れこむほどの人が多かった。つまり、スピードランナーの揃う大接戦の大混乱の区間なのである。
 しかしラッキーなことに普段、わたしが練習会で週2回お世話になっているQ−RCには、大阪マスターズの
第1区の代表選手であるMさんがおられる。彼女と一緒に鹿児島駅伝を目指して練習できる、ということは、
願ってもいないことである。と喜んで期待したのも束の間、故障から抜け出さないことには、「一緒に練習」な
ど、程遠いことだと、すぐに気がついた。

 今年の春は早い目にやってきたことが幸いして、何とか2月最終くらいから駅伝を目指して走り始めた。しか
し悲しいかな、長距離選手というのな、貯金が効かない。少しでも休むと、筋肉や心肺機能は明らかに衰え、
もっと長期間休むと、ただの人になってしまう。ただの人、ならまだましだが、ただの、おでぶさん、になって
しまうこともあるので、要注意。

 駅伝1ヶ月前の3月に入っての練習では、キロ4分40秒のPRが15キロのところ、ペースを守れずに、12キロで
リタイア。そのあと、1キロのインターバルをやっても3分50秒を切れなかったし、5キロを走っても3キロを
走っても、キロ4分のイーブンペースでは走れなかった。

 何とか間に合わせられるのか、自分でも半信半疑だった。だけれど、何とか間に合わせなくてはと思ってい
た。少しずつ、少しずつ調子を上向きに持っていき、4月にはいってやっと、週2回の練習会で、大阪マスター
ズの代表選手であるMさんと一緒のクラスで練習できるようになってきた。コーチに駅伝用のメニューを指示し
てもらい、Mさんと一緒に走り出す。よくここまでこれた、と、Mさんと一緒に練習できるようになったことだ
けでも、自分にはとても嬉しいことで、走る脚にも力がこもり、必死でMさんについて練習した。

 本番一週間前の奈良マスターズの練習会兼打ち合わせ、3キロ1本だったが、11分16秒もかかってまっ
た。自分なりの目標は11分以内だったのだが・・・最後の1キロを3分35秒にあげることが出来ただけまだ
救いが残っているかな、と自分では思いなおすことにした。つまり、よっぽど中盤、サボっていたか、脚が重た
かったか・・・・。練習と割り切って、タイムのことは忘れ、ここまで来れただけでも一安心と思うことだ。

 その日、一緒に走った、エルダーマスターズ駅伝代表の奈良の誇るK姉さん、エルダー1区区間賞4連勝の期
待がかかっているのだが、「私だってずっと故障していたのよ、ずっと休んでいたのに、寝てる子をたたき起こ
されて、駅伝走れ、っていわれて・・・でも、やっと間に合ったみたい。」と、お互い安堵の表情で鹿児島への
決意を新たにした。

 ここまで突貫工事で練習で来たこと、自分でもよくできたなと思える。なんとかかんとか、本番でも一緒に練
習してきたMさんの背中があるので、安心して走ることができる。4月にはいってからだったけれど、Mさんと
かろうじて一緒に練習できて、嬉しかった。いつの練習でも、Mさんは余裕を残しておられ、わたしはいっぱい
いっぱいでゼイゼイで付いていった。それでも一緒だと心強い。どこの都道府県代表メンバーが、チームの枠を
超えて一緒に練習しているだろうか?ほんとにラッキーだった、よかった〜Mさんと、Q―RC練習会の皆さん
方に感謝である。

 鹿児島でも、入賞を狙う大阪チームの第1区のMさんは、元日本記録保持者と昨年陸マガに取り上げられたこ
ともあり、プレッシャー大きいことだあろう。それに引き換え、県ナンバー(29番)を越える順位が目標の奈
良チーム。大混戦が予想される1区だが、あくまでも自分のペースを大切に、自分の走りを見失わないように気
をつけてスタートしよう。Mさんの背中との距離を測りながら、落ち着いて自分の走りができるように。焦って
オーバーペースになるのがこわい。

 そしていよいよ奈良マスターズのメンバー、監督、会長、応援の人たちと合流して鹿児島入りだ。運悪く前日
から雨。しかしスタート直前になって、ほぼ小雨に変わる。幸いなことに暖かい雨で、ポンチョをかぶって雨の
なかでウォーミングアップをしても、ちゃんと身体が温まってくる。帽子を目深にかぶり、ポンチョをがさごそ
いわせながらジョグしているわたしは、不思議なほど落ち着いていた。

 いつまでもぐずぐずウォーミングアップウエアーを着ていたわたしは、自分のナンバーを呼ばれたのに気付か
なかったため、最後列からのスタートとなった。「ドン」、となった瞬間、一瞬だが、「気後れ」した。あっと
いうまに取り残された。色とりどりの都道府県代表ユニフォームを着た選手達が、みんなわたしの前にいた。
「しまった、この位置取りではいけない。しかしオーバーペースもこわい。」〜団子状態の一番後ろから走り始
めたわたしは、スタートから500mくらいで6位に上がっていた。(スタート直後の写真が、翌日の南日本新
聞の第一面に掲載され、ローズピンクの帽子をかぶったわたしは確かに最後尾である。)

 一緒に練習してきた大阪代表のMさんはかなり前、わたしの足音も息遣いも聞こえないくらいの前である。
いったんは「ついていこう。ついていかなくちゃ。」とすぐ後ろに追いついたものの、「やはりわたしにとって
はオーバーペースか?後半、持つのか?」と不安がよぎった。Mさんもきっとわたしの息遣いでわたしが迫った
ことに気付いたに違いない、その脚取りの力強さを増して、少しずつわたしとの距離がまた、開いていった。
 大きなのぼりの終わりがちょうど、3キロ地点くらい。ここまでMさんについていけたら、と試走のときに気
合を入れていたのに、2キロくらいでもはや、つくのをあきらめてしまった。そこからの大きなのぼりも攻めき
れずにだらだらと登ってしまい、「後半に抜かれないように力を温存」作戦に廻ってしまった。 下り坂に差し
掛かって、後続の足音が近づいてくるのを感じながら、絶対に抜かれまい、と必死の守りの走りである。
 
 タスキを次の第2走者に渡したとき、リレーゾーンにずら〜っと次の男子選手が並んでいたので、私の後ろは
いかに団子状態だったか判るというものだ。1秒差、3秒差、4秒差でどんどん選手が入ってきていた。
 結果は区間6位。開催場所が南九州と離れていて、どの県もベストメンバーを集められなかったようで、この
わたしですら、区間6位であった。順位は予想よりもよかったのだが、走りが守りに入ってしまったのが心残
り。急ごしらえの練習が、責めきれなかった一因か。冬場にまったく走れなくなっていて、ここまでこれただけ
でも、よかったことではあるのだが。

 練習仲間のMさんは区間4位。差はちょうど40秒。そのあいだにランナーは一人しかいなくて、6位のわた
しがいる。
 タイムは18分09秒。4.9キロのコース、試走もしてみて、目標はぎりぎりでもいいから18分以内だっ
た。・・・・遠ざかるMさんを見やりながら、「これが力の差だ・・・」とあきらめてしまったのが、記録が出
なかった敗因かと思われる。4月にはいって、わたしの突貫工事の練習をいっしょにしていたMさんに付いてけ
ばよかったのだが、駅伝ゆえに順位を守ることに徹してしまった。

 さてそのあとは、第1区を走ったおかげで早く荷を下ろし、Mさんと一緒にユリカモメ練習隊(5月3日にユ
リカモメ70Kというレースにエントリーしているため)に早変わり。応援をかねて沿道にジョグに出た。
 時間的に間に合ったので、6区の40歳以上女子の区間に、サポートとして入る。「去年はわたしはこの区間
だったっけ。奈良のDさん、どうされているかな。」と思いつつ。さすが、駅伝に何回も出ておられるDさん、
担当の区間が変わっても落ち着いてタスキを待っておられる。奈良チームは5区までで少し順位を落としていた
ので、「Dさんなら、面白いほど前の選手を抜くことが出来ますよ、抜いた人の数がわからなくなるほどに。」
と大きく励まし、Dさんを見送った。Dさんは区間3位の好走で順位を上げ、奈良チームは最終27位になっ
た。 

 マスターズ駅伝がゴールするころ、一部同じ周回コースを使ってエルダーマスターズ駅伝開始。秋から故障
だった奈良のエルダーのエース、K姉さんも、何とか復調、ぎりぎり間に合ったかどうか、という感じである。
エルダー1区区間賞4連勝がかかっているが、今年はその区間に、大阪、京都の各チームから好敵手が揃っただ
けに、本人はものすごいプレッシャーであるらしい。が、かえって当日の朝からは「女王様」然とした風貌がた
だよってきていたので、わたしはK姉さんの区間賞4連勝間違いなし、と確信していた。故障中もずっとマウン
テンバイクに乗って、脚がひとまわりしっかりしたというK姉さん、期待通りに後続に歴然とした差をつけて
帰ってきてくださったときには、「さすがK姉さん〜〜!!」と絶叫してしまった。

 そのあとも60歳以上の男性ランナー、50歳以上の女性ランナーにタスキは引き継がれ、みんなが力を出し
切ってエルダーの部は堂々の3位入賞だった。特に、奈良のもう一人の50歳代の女性ランナーは、全国的には
まったく無名だが、他府県メンバーに「あの子、だれ?」と言わしめるほどの快走で、わたし達にも「競り合っ
ても、いったん抜かれても、ついていってゴール直前で一歩前に出れるなんて・・・あんなに頑張れるんだ。」
と、勇気を与えてくれた。〜ありがとう、S姉さん。 

 駅伝を闘い終え、半日のうちに天気は晴天に変わり、南国の夏を思わせる陽気になっていた。せっかく鹿児島
まで来たのだから、と、もう1泊するメンバーも多く、わたしもその仲間に入れてもらった。奈良メンバーの実
業団時代の後輩が、指宿近くの喜入町というところで体験型の牧場を経営されているので、わたしたちはファー
ムステイさせてもらうことになっていた。実業団では砲丸を投げていた、という奥さまと、心優しいご主人に迎
えてもらい、心づくしの手料理をいただき、メンバーみんなが力をだしきったことを喜ぶ祝杯が夜更けまで続い
た。
 奈良マスターズの方々は、その名のとおり、50歳代、60歳代の人たちが中心で、人生の先輩方ばかりだ。
普通の生活をしていたら、おそらく出会う機会のない人たち〜けれども、ランニングを始めたわたしに、ちょっ
としたご縁があり、奈良マスターズのメンバーに入れてもらった。その人生の先輩方のなんと生き生きとされて
いて、そして、お茶目なことか。このはじけるばかりの笑顔に触れることが出来て、本当に感謝している。

 その夜半には、牛の赤ちゃんが生まれた。牛の出産なんて初めての体験だ。牛舎で産み落とされた子牛は、そ
の直後は黒光りしたかたまりのようだったが、母親がずっとつきっきりで身体中を舐めていた。鼻の周りから舐
め始め気道確保をして、子牛に呼吸をさせる。そして、マッサージをするように末梢から心臓に向かって身体中
を舐め、子牛に立つことを促す。生まれた子牛は、30分以内に立ち上がらないと、死んでしまうからだ。一生
懸命立ち上がった子牛は、いったん倒れこんだが、母親の初乳を飲んで、免疫力をつけ、体力を回復させる。翌
朝にはまた元気な姿を見せてくれた。〜「生まれた子牛には、奈良、って名づけなくちゃならないね。」とわた
し達を歓迎してくださった奥様たちが印象的だった。



     

 2002.4.29 堺シティマラソン(10キロ)                39分24秒



 先週21日に全日本マスターズ駅伝、はるばる鹿児島まで4.9キロを走りに行っていた。3月後半からこの
駅伝一筋で練習していて、短い距離ばっかり・・・・。鹿児島から帰ってきたら疲れがどっと出たのか、のどの
扁桃腺がはれ、脚の付け根のリンパ腺が腫れ、両足の内転筋が腫れ、熱まで出てひどい状態である。わたし、一
大決心して参加したレースのあとでは、よくこういう状態におちいる。身体中疲労困憊するウルトラでもないの
に体力不足の一言に尽きるのである。

 そうして1週間、仕事以外はほとんど布団の中で過ごして、堺シティマラソンがやってきた。今年もこの堺シ
ティマラソンでは、レースのあと、学生時代の大先輩の会社のクラブのBBQに混ぜてもらう約束だったので、
布団からはいずりだして出かけた。
 まる1週間走らなかったのでさすがにばねがたまっていて、最初のでだしは快調!でも、半分も行かないうち
にもうろうとしてきて、最後はもう、どこを走っているのかわからない状態だった。(堺シティのコースはもと
もとわかりづらいと一般評である。)

 最初からどんと飛び出してしまい、女子のトップを走っていたので先導の自転車がついてくれ、コースを間違
わずにゴールまでたどり着いたという感じ。後ろと2秒差とはまったく気付かなかった。きっと追い抜かれても
気付かなかったと思う。〜というのはちょっとオーバーで、5分前にスタートした男子選手がコース上にたくさ
ん走っているので、コースを間違うはずはないのである。

 ゴールしたあとはさらにもうろうとして、給水テントの椅子に座り込んでしまった。身体中火照っていて、缶
ジュースを冷やしている氷をもらって、頭や首筋を冷やしているとちょっとはましになってきた。真夏でもない
のに、こんなに身体中が熱いなんて・・・・よくぞ10キロも走れたものである。

 打ち上げは野外BBQが待っている。大学時代の陸上部の大先輩の会社のチームに混ぜてもらい(どこにでも
顔を突っ込むなぁ〜〜我ながら〜)、大先輩へ、ビールのあてに「極上の羊羹」を献上する係りである。先輩の
特技は、羊羹1本丸かじり、目を疑うけど、これは見ものである。しかしBBQでは、いつものわたしに似合わ
ず350ccの缶ビールを1本、飲み干せずに、これは自分でも、「よっぽど体調悪い。」と気付き、2次会に
は参加しなかった(当たり前かな)。

 しかしそのあとも扁桃腺が腫れ、リンパ腺が腫れ、GW突入だというのにまだ微熱が続いた。このあとすぐ、
3日は何を間違えたのだか、ユリカモメ70キロにエントリーしている。さて、ユリカモメの行方は?


 

 2002.5.3 ユリカモメマラソン(70K)                  40キロでリタイア


 なんという体調不良だ、もう2週間近くも扁桃腺が腫れ、リンパ腺が腫れ、まだ微熱が続いている。楽しいは
ずのGWが、わたしにとっては、寝GWになり代わってしまっている。

 ユリカモメ、止めたほうが良いだろうか?到底70キロは走れそうにない。でも、完全休養のおかげで脚は痛
いところはない。神経痛もほとんど消えていて、奥のほうに僅かに疲れが残っているだけなので、筋肉触っても
自分では柔らかいほうである。バットマン(足を振り上げること)しても、脚がぐんと上がるので、股関節あた
りの筋肉群も疲れていないようだ。熱さえ平熱に戻れば、ふらつかずに行動できるのだが・・・・

 まだ、微熱があって頭がぼ〜〜〜っとしているが、「ユリカモメで会おうね!」と約束した友人も多いし、一
緒に行く約束をしているチームのメンバーもいる。とりあえず行ってみるかな。熱さえ引けば、70キロは無理
でも練習がてら走れるかも。どんなに故障しても、走りたい、という気持ちだけは、失せたことがないのが、不
思議。いちおう、最後まで走れたときのことを考えてスペシャルドリンクも6本用意して、出かけることにし
た。

 練習らしい練習も出来ていないし、70キロは無理だろう、そう思っていたが、完走のための安全策(ペース
を落としてLSDに徹する)を取る気にもならず、自分の快調なペースで走り始めることにした。気持ちよく走
り始めたら、1キロ5分を少し切るくらいのペースだった。このペースで70キロは到底無理だろう、一夏走り
込んだ後の昨年9月の5時間走にて、このペースでやっと61キロあまりを走破出来ているのである、いまの状
態では、行けるところまで行って、ジョグに切り替えるか、歩くか?後は、野となれ山となれ。(と、いまはこ
んな書き方をしているが、そこまで自暴自棄の走りでもなかったつもり。)

 こんな状態でも、もしかするとジョグに切り替えて完走できるかも、と、甘えた気持ちもあったのが正直なと
ころ。しかし、30キロを超えて、フルマラソンで言うところの30キロの壁ほどでもないが、脚が動かなく
なってきた。ほかのランナーはみんな、暑い、を連発していたのに、わたしの脚の筋肉は、内側から冷感が襲っ
てきた。「しまった、体調が悪いのだから、ロングスパッツで出走すべきだった。」〜後悔あとの祭り。

 徐々にペースが落ち始め、おまけにかんかん照りの天気が、一瞬影って、曇り空になった。〜「寒い。」ほか
のランナー、だれが聞いても、「ちょっとおかしいんとちゃう?」といわれるだろうが、そのときわたしは身体
中が寒く感じた。距離にしてようやく40キロ、フルマラソンの距離まで来たけれども、「脚がしんどい。到底
あと30キロも走れないだろう。こんなにしんどいこと、もう、やめたい。」走る気持ちが萎えてしまって、止
めたい、という気持ちが大きくなってきた。練習が十分にできていないと、身体も動かないし、気持ちで引っ
張っていくことも出来ない。

 40キロを超えたところでついに気持ちが続かなくなってしまった。「もう、ここまで走ったのだから、いい
かな。」〜40キロ通過で3時間20分そこそこかかっていて、その後ジョグみたいなペースになったのだがま
だあきらめがつかず、とぼとぼコース脇を走っていた。どんどん後続のランナーに追い越される。「もう、やめ
よう。止めたのも、同然の走りだ。」〜時計は3時間26分くらいだった。そのあとは、歩いてスタート地点に
後戻りしたけれど、フルマラソンの距離はこなしたことになるかな?

 なんということだ、「走りたい、という気持ちが萎えてしまう」なんて。自分でも言いようのない敗北感に襲
われた。誰かほかの人に抜き去られたからでもなく、天気に翻弄されたのでもなく、距離に圧倒されたのでもな
く、自分の気持ちに負けてしまった。「どうしよう、こんなことになってしまって。自分はこれからも、走れる
のだろうか?」

 その気持ちは、リタイアした直後よりも、そのあとにどんどん大きくなっていった。この大会には、大阪城の
クラブ関係総勢9名で参加している。そのなかで一番先に40キロ地点を通過したのがわたしであれば、一番先
にリタイアを決め込んだのもわたしであった。わたしのリタイアが引き金になったとは思いたくないのだが、そ
のあと、仲間が次々リタイアをしてきた。「Oさん(=わたしのこと)も止めたし、もういいか、と思って止め
ることにした。」とみんなから言われてしまった。

 しかし明るい仲間達である〜「早くリタイアしたから、元気だよ。」といわんばかりに、8名のリタイア組で、
自分たちで早々に打ち上げをすることになった。ちょうど頃も昼過ぎで、おなかもすいている。主催者側の打ち
上げパーティもあるのだが、なにせそれは競技終了後の夕方になってから。待ち時間のあいだに出来上がってし
まおうという作戦に出た。

 銭湯につかり、地元の商店街で幾手にも分かれ買い出しをして、コロッケやから揚げ、ビールなどを携えて会
場の武庫川河川敷に戻ってきても、レースはまだ続いている。暑さのため、汗が塩に変わって走っている選手も
多い。「走っている人たち、すごいね〜。」「いま、こうして休憩して会場に帰ってきたら、もっと走り続けたら
よかったと思うけど・・・。」「でも、そのときは到底、走れなかったし。」といいながら、ビールで乾杯して
しまった。(何の乾杯?不名誉なリタイアを忘れ、次なるレースへの意思表示?)

 そしてさいごに、我々リタイア組がほとんどビールで出来上がったころ、我々の中でさいごに一名、走りつづ
けていた女性が堂々のゴール。完走した女性ランナーに送られる赤い1輪の薔薇とその笑顔がまぶしかった。

≪追記≫

 さて、GW周辺では、各地でウルトラレースが開催されている。わたしの身近でも、ごく普通の心優しい穏や
かな女性に見えた人が、土砂降りの雨に見舞われた萩往還140キロを完走 & 月間走行距離200キロにも
満たない全盲のランナーが、桜道270キロを時間内完走されたという。あちこちから届くウルトラ情報の話題
にすらついていけないわたし。野山を走っておられる皆さん方の、夜間走行やら、縦走やら、もう、恐ろしい内
容ばっかり・・・ウルトラのメンバーはこんなにタフなのか、と完全に萎縮してしまっている。同じ走りの世界
なのに、残念である、わたしの走りの世界があまりにも狭いのだろう、きっと。

2002.5.10 市島マラソン(5キロ)        18分31秒





 2002.5.19 スポーツ連盟大阪陸上競技記録会(10000m)       39分37秒
                                 (1500m)       5分13秒


 400mトラック25周、ちゃんと数えられるか、まずそれが問題。でも1周あたりのペース配分が完璧にわか
るのが、トラックのいいところ。きちっとペース配分して走れることを最大目標に、トラック10000m初挑
戦である。出来れば38分台半ばくらいの記録が出れば・・・・と、当初エントリーしたころの予定から大きく
外れて、その後の体調不良により練習がままならなかったので、トラック25周は、とりあえず「経験した。」
というレースになってしまった。

 運悪くはしり梅雨にかかり、前日から雨。当日は、あがる、という予想だったのに、雨が残って、いや、残っ
た、どころではない、レース開始直前には広い400mトラックが流水プールさながらの土砂降りになった。
レース前、選手の待機所で待っているときに、「この雨はひとえにわたしの普段のおこないのせいに違いないで
す。」とつぶやくと、「ここにいるみんなが同じことを思っていますよ。」と、また、誰かがつぶやいてくれた。

 男子選手に混じって、紅一点でスタート。おそらく何周も周回遅れになるだろうことが予想されるメンバーで
ある。ポンチョをかぶって入念にウォーミングアップしたつもりなのに、走り初めから身体が動かない。1周目
は緊張のまま、これ以上速く走ってはペース配分は誤り、というペース設定の上限(90秒)で廻ってしまっ
た。2周目に入って身震いするような寒さを感じ、単純に雨の冷たさだけで自分の腕に鳥肌が立ったようだっ
た。 

 5周もするうちに身体の寒さは感じなくなったが、動きはぎこちない。先頭の男子選手達がわたしを抜いてい
くときには、インコースを空けることにしていた(本来男子だけのレースなのだが、特別に走らせてもらってい
るため、ちょっと遠慮している)ので、後ろからの様子も気にしながら走っていた。

 周回、1周ずつ、通過ラップをチェック。5000mの途中経過が19分25秒と、まずまずだったが、練習
の出来ていない身体では、このあとのペースダウンは覚悟しなくてはならない。何を考えてこのあとの12周半
を乗り切ればいいのだろう。〜5月冒頭の海外のレースでマラソンで活躍している渋井陽子選手が10000m
の日本記録を塗りかえたニュースが入ってきていた。わたしが大ファンである高岡寿成選手もこの種目の日本記
録保持者である。彼ら、彼女らは、何を考えて25周回しているんだろう・・・?

 とまあ、自分とはあまりにもかけ離れたところにいるエリート選手達のことに思いを馳せながら、わたしも周
回を重ねていった。さすがに8000mをすぎて、1キロ4分を超えるペースになってしまい、最終周回にはい
るまでそのペースをあげることが出来なかった。このように、ペースはジリ貧で苦しんだものの、集中して取り
組むことが出来たので、25周という周回数も気にならなかったことだけが、今日の収穫。

 そのあと昼からは、うって変わって晴天、雨上がりで気温も上がってきた。女子の5000mでは、好選手が
揃い、見ごたえのあるレースだった。普通ならばわたしはここに混じるはずだが、今日は10000mに逃げて
しまったので、気楽に応援隊に廻る。トップ選手はさいごまでイーブンペースで周回を重ね、17分31秒とい
うすばらしいタイムでゴール。この目で見た、一般市民ランナー女子選手の、2度目の17分30秒台のレース
であり、その勢いに圧倒された。(1度目は、スポレク石川にて、三重県のK谷選手のレース)

 圧倒されたところに、わたしの1500mのスタートだ。久々にスパイクをはいて、その弾む感触から、1周
目を76秒で廻ってしまい、「しまった、800mじゃあるまいし、オーバーペースだ。」と気付いたとおり、
このレースもジリ貧ペースで苦しむことになってしまった。

 しかしやはりトラックは楽しい。この広い400mの周回路を、自分たちだけで走れるのだから。景色のいい
ロードレースや、応援の多いマラソンレースとまた違った雰囲気で、わたしはトラックレースも大好きである。



                           

 2002.5.26 青山高原つつじクォーターマラソン(10・55キロ)      44分27秒


 期待通り、快晴に恵まれた青山高原つつじマラソンだった。近鉄沿線に住んでいるわたしは、近鉄を使って青
山町駅まで直通約1時間20分。同じ日に阪神間で西宮ハーフ、大阪市内で共生・共走リレーマラソンが行われ
ているが、わたしは三重県まで景色を楽しみにぶらりと遠出である。

 つつじは残念ながら、今年の温暖な気候のおかげですべて咲いてしまったあと。それでも尾根沿いから見る青
山高原の眺めは、絶景かな〜〜。この大会、2年前に一度走っているけれど、そのときは小雨と霧がかかってい
て30m先はもう霧の中。コースのアップダウンもよくわからなかったけれど、今回はよく見渡せた。前年は暴
風雨のため、大会自体が中止になっていたので、今年こそ、その絶景を期待していた。

 さて、クォーターマラソンのコースは尾根沿いを走るコースで、最初500Mあまり急に登って(この500
mほどが、10キロ+550mの部分)、そのあと3箇所ほどのぼりながら折り返し、ゴール手前さいごにのぼ
りが有るけれど、それ以外は、兵庫・たたらぎハーフマラソンのコースに感じが似ているともいえる。たたらぎ
はハーフなので、それを半分に圧縮した感じかな?

 そしてこの青山高原とは、年がら年中、風の強いところのようで、コース途上に風力発電の風車がたくさんあ
る。がしかし、このレースの日はあまり電力が生み出されなかったようだ。沿道の風車のまわり方がのんびりし
ていた。つまり、風はあまり無かったのである。

 スタートして序盤の急激なのぼり、前回、この坂で脚がつって早々にリタイアしている人を見かけたので、慎
重に息も上がらないように走り始める。最近のわたしといえば、日曜ごとのレースのほかには、週1回くらい走
るだけ(それもレースが近づいた金曜あたりにあわてて身体をほぐす程度・・・)なので、前半飛び出して後半
ばてないように、折り返しまでは余裕を持って走れるよう、ペース配分を怠らない。前半、ちょっと、ためすぎ
たかな、というペースで走っていると、後半、少しでもあげることが出来、気持ちよくゴールできるのである。

 そんなわたしのゴールタイムはクォーターマラソン、44分27秒。4分の一でこのタイム。二分の一の来週
のたたらぎハーフは、苦戦必至!?!?!まあ、ほかの人のことを気にせず、オフを決め込んでいる今こそマイ
ペースで。

 こんなふうにぶらりと三重県まで遠出したため、参加者はほとんど三重県内、または愛知県の人。ほとんど知
り合いに会わず(奈良の信貴烏チームのメンバー、一人に会っただけ)、表彰式でも隣りの女の人に、「あまり
見かけませんね。」と言われたりした。歳若い彼女は、三重県のトライアスリート。夏にはロングのトライアス
ロンレースに初挑戦とのことだが、冬にはマラソンで国際レースも狙っているようだ。どこに行ってもちょっぴ
り励まされるような出会いがあるので、たまには遠出するこんな大会も新鮮である。




 2002.6.2 たたらぎハーフマラソン(ハーフ)              1時間27分06秒


 最近、本当にきちんと練習してなくて、「こんな状態で毎週日曜に、レースに行っていていいんだろうか?」
と、さすがのわたしも戸惑いながらのたたらぎハーフだった。走るのは、日曜のレースと、ウイークディ1回か
2回くらい。日曜日にレースを入れていなければ、当然、週末も休みを決め込んでいるに違いない。いちおう自
分なりには、夏場にゆっくり長い距離を走りこむための鋭気を養うオフと位置付けているのだが・・・。

 たたらぎのコースは、そのダム湖の水の青さと取りまく深い緑、アップダウンで知られているが、上り下りの
ようすは過去2回の参加で知り尽くしている。普段から20キロもジョグすらしていないわたしは、とりあえず
完走が目標だ。モーニング娘のような女子選手が一枚も二枚も上の走力で一人飛び出し、わたしは2〜3位争い
に加わっていたが、焦ることなく自分のペースを守り、1時間27分ちょっとのタイムだった。

 神経痛もちのわたしとしては、気候はいい感じだった。晴天の日差しは強いけど、乾燥していて、蒸し暑く感
じることはなかった。参加3回目のコースはアップダウンも気にならず、(とはいえ、自分ののぼりの能力がな
いことをより納得しただけ)、ダム湖を眺めながら、気持ちを落ち着けて走ったレースだった。

 というのは、このレースの直前に大学時代の2つ上の先輩が亡くなったのだ。自分の心の中で、亡くなったK
先輩を追悼する意味で、今日のレースでは、ランナーであるわたしの正装ともいうべき淀川ランナーズのユニ
フォームを着て、喪章をつけて走った。公認レース以外の一般レースで淀ランのユニフォーム、駅伝以外に、本
当に初めてじゃないかな?〜やっぱりこれがわたしの正装なのだと、思いを込めて走った。きっと先輩が何かの
力になってくださると信じて走ったら、最後まで冷静に自分のレースができた。

 「喪章を付けて走る。」〜時には気持ちの上でそういうことが必要なことがあると思う。

 先輩の死は、信じられない突然の死だったので、一週間、亡くなった先輩のことばかり考えていて、わたしは
何も出来ない立場ではあったけれども、できないなりに、ただ悲しみがつのるばかりである。仕事でちょっと手
を休めたとき、夜ほっと一息つくとき、走り始めるとき、走っているとき、先輩のことを思い出してしまう。

 仕事関係、大学関係、だれに言わせても「よくやってくれる良い人。」であったK先輩。大学陸上部のOB会
の要人だったので、お通夜や告別式には、遠くからも関係者がとんでこられた。わたしの所属する淀川ランナー
ズにも、大学陸上部OBのY先輩がいらっしゃって、同じくOB会の要人であられるので、各方面への連絡&手
配に2日間を費やされたようだ。

 大学陸上部、と言っても、わたしは陸上部として卒業したわけではない。大学入学直後のほんの一時期、籍を
置いていただけなのである。というのは、中学・高校時代の6年間に陸上競技をしていたわたしは、やはり広い
トラックで走ることに憧れを持って大学陸上部へ足が向いた。そして、記録的に高校時代後半伸びやなんでいた
こともあり、マネージャーという身分で、広い大学のグランドをジョグしはじめたのだ。

 当時、スポーツ推薦の無かった体育会陸上部には、女性といえば4回生の先輩が一人だけ。あとはみな男性
の、男所帯だった。けれども、先輩方には、入部当初から、本当にお世話になり、大事にしていただいた。マ
ネージャーとして記録をつけ始めたり、インカレに応援にいったり、合宿所で食事を作ったり。4回生の女性の
先輩に事細かに面倒をかけながら、「自分にもまだ、少しは走れるのだろうか?」と自問自答しながらの数ヶ月
であった。

 が、インターハイ地区予選敗退で燃え尽きていたわたしは、大学陸上部に居場所を見つけられずに、早々に大
学陸上部をドロップアウト。マネージャーとしては物足りず、かといって、選手として走れるほどの器でもな
かったのだ。陸上部を続けられなくなってからは、走ることもすっかり自分の中からは消えてしまった。嫌いに
なったわけではないと思うが、走るということを自分の気持ちのなかで封印してしまったのだろう。そのあと、
わたしは、雪山に魅せられ、スキーに熱中していく。

 そして、走ることをまったく忘れて、15年以上もたったころ〜30歳代半ばになって、友人の強い勧めで
ジョギングを始めることになった。これも、スキーのオフトレーニングと健康作りのためになるだろう、との意
図からで、走るために走り始めたのではなく、スキーのために走り始めたのである。

 しかしわたしは、何にでも熱中する性格である、走り始めてみれば、ちょっと欲が出て各地のマラソン大会に
出場するようになっていく。偶然見つけた摂津淀川の記録会に参加し、淀川ランナーズに登録させてもらい、そ
うしたらしばらくして、偶然に立命館大学陸上部出身のY先輩が同じクラブにいらっしゃったので、本当に驚ろ
いた。  

 Y先輩は嫌な顔一つせずに、「やあ、驚いたね。」といわんばかりに、陸上部OB会の先輩方にわたしを引き
合わせてくださった。母校の女子陸上部の昨今の活躍などもあり、陸上部OB・OG会は、しっかりした組織に
なっている。わたしが引き合わせていただいたK先輩は、学生時代からその功績大きく(=学園紛争で低迷した
立命陸上部を主務として選手勧誘に奔走し、今日の土台を作ってくださったと言っても過言では無いといわれて
いる)、その後もなお引き続き、陸上部OB・OG会の要人である。

 一生のうちで再び、大学陸上部の方々にお目にかかれるとは、思ってもいなかったので、本当に嬉しかった。
大学入学当初、あんなに親切にしていただいたのに陸上を続けることができなかった、という負い目をいつも持
ちつづけていたのだ。

 けれどもK先輩は、00’年リバーサイドマラソン大会で再会した最初に、「大学当時、もっと女子の環境が
整っていれば、Oさん(=わたしのこと)もずっと陸上を続けていて、きっと活躍してくれただろうに。」と、
逆にわたしのことを気遣ってくださったのだ。そのあとには、陸上部OB・OG会報にわたしの記事を載せてく
ださったり、K先輩の会社の陸上部の方々とも、堺シティマラソン&BBQなどで交流をさせてくださった。そ
してまた驚いたことに、K先輩の会社の陸上部には、中学校時代陸上部の同級生の男の子がお世話になっていた
のだ。

 マラソンを始めたわたしが淀川ランナーズに入部したことで大学陸上部のY先輩に出会い、陸上部OB・OG
会つながりでさらに上級生のK先輩につながっていったこと。中学時代の同級生の男の子が会社の陸上部でK先
輩に面倒をかけながらもかわいがってもらっていたこと。人生のめぐり合わせのご縁を感じている。ご縁があ
るって、ありがたいな、と。

 K先輩が亡くなったことについて、会社関係陸上部の人たちは、「自分たちが少しでも力になれなかったの
か、なぜだ?」と悲しみを表している。わたしは、立場的には、会社関係でも大学関係でもないので、ただた
だ、もう二度と先輩に会えない、という悲しみが続いている。わたしの中で亡くなったK先輩をしのぶ気持ちは
ずっと続いていくことだろう、そんな気持ちを持ちつづけながら、元気に走りつづけたいと思う。たとえ走れな
くなっても、元気に過ごしていきたいと願う。
 



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